丸山真男の門下であった橋川文三の『歴史と体験』 に所収された、 「井上光晴 『虚構のクレーン』 をめぐって」 という短文に、次のような文章が紹介されている。
小林先生。すみませぬ。折角のご好意に背いて来て、まことに申し訳ありませぬ。実はあなたから 『君の自叙伝を書け』 と勧められたときには恐縮しましたが、お言葉に甘えて、『それでは書きましょう』 と、返事はしたものの、通り一遍のお世辞じゃあるまいか、書かぬほうが却って礼儀に叶うだろうと思っておりました。
二度も催促を受けて私ははっとしました。私はあなたが生粋の日本人であるのに気がついたのです。日本人は嘘は言わない。たとえ酒席におけるかりそめの戯言でさえ、必ず責任を取る、ということに気が付いたからです。お詫び申し上げます。同時に私に、日本精神の一端をお示しくださったことを感謝いたします。・・・・
ただ日本精神の修行とお聞きになっただけでは元から日本人であるあなたには、ちょっと合点がいかぬかもしれませぬ。しかし、旧韓国人であった朝鮮人が、日本人になるには大なる修行が必要であったことを痛感しました。単に法的の日本的臣民であるばかりでなく、魂の底から日本人になりきるには、並大抵の修行ではありませぬ。
これは、橋川によると、「文学界」 の昭和16年3月号に掲載された、李光珠という朝鮮人の青年が書いた 「行者」 という文章の一部なのだそうだ。文頭で 「小林先生」 と呼びかけられているのは、「文学界」 を主宰していた小林秀雄のことである。
ことさら指摘するまでもないことだが、この青年に自伝の執筆を勧めたという小林の言葉がたんなるお世辞ではなかったとしても、それは小林が単にそういう人であったというだけのことで、彼が 「生粋の日本人である」 ということとはなんの関係もないし、ましてや 「日本人は嘘は言わない」 なんてことには全然ならない。
橋川の文は、さらに次のように続いている。
そして、その李光珠の 「修行」 の励みとなったものは、「われわれは押しかけていこう。自発的にすべての朝鮮的なものをかなぐり捨てて、日本人になろう」 という朝鮮青年たちの存在であった。・・・・
かれらは 「内地人の小さい子供でさえ、われわれ朝鮮人の先生である。それは、この小さい子供でもわれわれよりもっと日本人であるからだ」 という態度をもって 「真剣に、それこそ死に物狂いで、日夜この修行をしているのです」 とも李は書いている。
だれが決めたのか知らないが、「相撲は日本の国技」 なのだそうだ。たしかに、相撲は日本の伝統的な文化の一つではあろう。しかし、そういうさしたる根拠もない言葉を振りかざして、朝青龍を日本の文化を理解していないなどと批判している連中がやっていることは、橋川が紹介した文を書いたような、倒錯した朝鮮人青年を多数生み出した、戦前・戦中の 「皇民化教育」 がやっていたことと、それほど違わないのではないかと思う。ようするに、彼らが言っていることは、モンゴルで生まれ育った青年に対して、「死に物狂いの修行」 をして 「魂の底から日本人になりきれ」 と要求していることのように聞こえる。