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カテゴリ:社会
人間がいちばん打ちひしがれるのは、彼我の圧倒的な力の差を思い知らされたときである。言い換えるならば、自分ではどうしようもない、なんの抵抗もできない状況であり、本来ならば守ってやるべきような人すら守ってやれないといった状況に陥ったときである。 そのような状況のひとつが、たとえば身にまったく覚えのない罪によって逮捕され、自分の言い分はまったく聞いて貰えず、「犯罪者」 の烙印を押されて刑罰を受けることであることはいうまでもない。 しかし、取調べや裁判といった手続きは、少なくとも人と人が直接対面する中で行われる。最終的に自分の言い分が聞かれなかったとしても、その過程においては一縷の望みを抱き続けることも不可能ではない。たとえば、戦後間もないころに起きた八海事件で、地裁から最高裁の間をなんども往復し、計3回もの死刑判決を受けた被告が発したとされる、「まだ最高裁がある!」 という有名な言葉が象徴するように。 先日、5年前に富山で起きた事件で逮捕され、3年の実刑判決を受けて服役した男性の再審無罪が確定した。これは、たまたま別の事件で逮捕された男が、たまたまこの事件についても自白したという、まさに確率的にはほとんどありえないような 「僥倖」 のおかげなのだそうだ。 この冤罪事件に対しては、さまざまな捜査のずさんさや、不当な自白の誘導が指摘されている。無罪となった元被告は、再審裁判で、捜査の不当さを明らかにするために、当時の取調官らを証人として呼ぶことを要求したが、その主張は必要なしということで却下されたということだ。 ようするに、5年前に検察の主張をうのみにして有罪判決を下した裁判所は、今度もまた、検察の主張のみをうのみにして無罪判決を下したというわけだ。そんなことならば、そもそも裁判官なんていらないのではないかなどと思ってしまう。 それはそうと、5年前のこの事件でこの元被告が逮捕されたときに、マスコミなどはいったいどのような報道をしたのだろうか。ずさんな捜査を行った警察や検察を批判するのは、もちろん悪いことではないし、必要なことでもある。 しかし、マスコミ自身にも、この事件を契機に考えるべき点はないのだろうか。今回の事件について、そのような観点から自らの姿勢を省みたような報道は、残念ながら見当たらないようだ (この事件そのものは、当時それほど大きく取り上げられはしなかったようだが)。 たとえば、スウェーデンなどでは、犯罪報道は原則として匿名で行われるという。実名による事細かなマスコミの報道が、事件に直接関係のない 「容疑者」 の家族などに非常な精神的負担を掛けるものであることはいうまでもない。大きな事件を起こした 「容疑者」 の家族が退職に追い込まれたり、一家離散やときには自殺といった悲劇が起きたりといった事例も、けっして珍しい話ではない。 そもそも、たんなる 「容疑者」 にすぎない段階で、実名報道を行うことには人権上も大きな問題があるというべきだろう。「高度情報化社会」 といわれる今日の社会では、マスコミの報道は、瞬時に全国津々浦々に広がる。自分や家族の画像や声などが実名で報道されることが、その人たちにどれほどの心理的負担や 「社会的圧力」 という怪物的な力をかけるものであるか、報道関係者を名乗る人たちも、まったく知らないわけではないだろう。 幸か不幸か、自分自身にはそのような経験はない。しかし、自分や自分の家族についての報道が、自分の手が届かないまったく見知らぬ人らにより、電波という目にも見えず手で触れることもできない媒体によって、食事中もトイレに入っているときも、あまつさえ自分が寝ているときでさえも、たえずどこかで流されており、顔も名前も知らぬ誰かがそれを見聞きしているというような状況には、ときとして、ごく普通に生きている人間の命を奪うだけの十分な力があるものだ。 その程度のことは、多少なりとも人間としての想像力を持っているならば、誰でも容易に理解できることだろう。それとも、マスコミの皆さんらは、自分たちは実名のあとに 「容疑者」 とつけているから、犯人扱いなどはしていないというつもりなのだろうか。そろそろ、「犯罪報道」 のありかたについても、もういちど考えてみるべき時期ではないだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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