10月も終わってすでに11月である。出雲に集まっていた八百万の神様たちも、今頃はみなそれぞれの地元に帰ってゆっくりとされていることだろう。さて、今年は日本中の神様たちが集まって、いったいどんなことを話しあわれたのだろうか。これもまたいささか気になるところである。
最近、地元のニュースを聞いていても、あれ、そんな市、いったいいつの間にできたの、というように、聞きなれない地名に遭遇することがしばしばある。これは、いうまでもなく小泉政権時代に鳴り物入りで進められた、「平成の大合併」 のせいである。伝え聞くところによれば、この大合併によって、以前には3000以上あった自治体の数が2000以下にまで減少したのだそうだ。
たとえば福岡県では、旧福間町と旧津屋崎町が合併して福津市という市が誕生し、また旧宮田町と旧若宮町が合併して宮若市なる市が誕生している。いずれももとの町名を足して2で割ったような市名であるが、これを式で表せば、
(福間 + 津屋崎)÷ 2 = 福津
(宮田 + 若宮)÷ 2 = 宮若 ということになる。
わが地元の福岡なる地名は、初代藩主 黒田長政 (官兵衛の息子) が家康から関が原でのご褒美に筑前一国を与えられて、大分の中津から移ってきたさいに、官兵衛の出身地である備前福岡からとってつけた名前なのだそうだ (ただし、黒田氏の名前の由来はさらに古く、近江の黒田なのだそうだが)。
つまり、地名としては西の福岡よりも東の博多のほうが、地元固有の由緒あるものなのである。ところが、明治の市制施行のさいに、東部の博多と西部の福岡の代表の話し合いで市名は福岡ということになり、そのかわりにその後にできた駅の名前は博多ということになったのだそうだ。福博市などという、足して2で割った珍妙な名前を付けるといった妙な妥協に走らなかったのは、さすがに先人の偉いところである。
民俗学者である谷川健一氏は、岩波新書 「日本の地名」 の結語で、次のようなことを書いている。
地名の改竄は歴史の改竄につながる。それは地名を通じて長年培われた日本人の共同感情の抹殺であり、日本の伝統に対する挑戦である。1962年に自治省が 「住居表示に関する法律」 を公布施行して、地名改変を許容し奨励したことによって、戦後日本の大幅な改悪が急激にはじまった。私はそうした自治省を 「民族の敵」 と呼び、それに抵抗する全国組織 「地名を守る会」 を1978年に結成し、それから3年後には川崎市に 「日本地名研究所」 を設立して現在に及んでいる。
私共は地名が日本人の自己確認に欠くことのできないものとして、その保存と研究にささやかな努力をつづけている。その甲斐もあって、地方自治体による無謀な地名改変の動きは鎮静化したが、さきの明宝村の例のように、まだ後を絶ったと言い難いのが現状である。
実際、「邪馬台国」 論争1つを取り上げてみても、多くの学者や民間研究者が、古い地名が現代まで残されているという事実に大きな恩恵を被っている。これが、すべてXXX 一丁目みたいな味気ない地名ばかりになっていては、研究者たちもまったくもって途方にくれたことであろう。
この本の出版は1997年のことである。残念ながら、谷川氏の期待に反して、その後の 「平成の大合併」 によって、ふたたび 「無謀な地名改変の動き」 は加速化されることになった。
ここで連想するのは、日露戦争後の明治末期、西園寺内閣のもとで原敬内務大臣の主導により、全国的に進められた 「神社合祀」 と、それに対して激烈な反対運動を展開した南方熊楠のことだ。
下に引用するのは、その南方熊楠の 「神社合祀に関する意見」 の一節である。
むかし孔子は、兵も食も止むを得ずんば捨つべし。信は捨つべからず、民信なくんば立たず、と言い、恵心僧都は、大和の神巫(みこ)に、慈悲と正直と、止むを得ずんばいずれを棄つべきと問いしに、万止むを得ずんば慈悲を捨てよ、おのれ一人慈悲ならずとも、他に慈悲を行なう力ある人よくこれをなさん、正直を捨つる時は何ごとも成らず、と託宣ありしという。俗にも正直の頭に神宿ると言い伝う。
しかるに今、国民元気道義の根源たる神社を合廃するに、かかる軽率無謀の輩をして、合祀を好まざる諸民を、あるいは脅迫し、あるいは詐誘して請願書に調印せしめ、政府へはこれ人民が悦んで合祀を請願する款状(かんじょう)なりと欺き届け、人民へは汝らこの調印したればこそ刑罰を免るるなれと偽言する。かく上下を一挙に欺騙する官公吏を、あるいは褒賞し、あるいは旌表(せいひょう)するこそ心得ね。さて一町村に一社と指定さるる神社とては、なるべく郡役所、町村役場に接近せる社、もしくは伐るべき樹木少なき神社を選定せるものにて、由緒も地勢も民情も信仰も一切問わず、玉石混淆、人心恐々たり。
やっぱり、愚かな歴史というものは繰り返されるものなのだろうか。