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カテゴリ:歴史その他
『論語』 によると、かの孔子様は30で立ち、40で惑うことがなくなり、50で天命を知ったのだという。さすがに、孔子様は釈迦やソクラテスと並んで、世界の 「三大哲人」 と呼ばれるだけあって、われわれ凡人とはずいぶんと違うものである。 世間では、40歳になると 「私もとうとう不惑になりました」 などと、軽々しくいう者も多いようだが、そもそも、これはあくまで孔子様の 「自分語り」 なのであるから、凡人が同じように使ってよい言葉ではない。 このような言葉を誰が最初に使い出したのかは判然としないが、沙翁のほうは、ひょっとすると、彼の戯曲を精力的に翻訳・紹介した坪内逍遥なのかもしれない。 年譜によれば、シェークスピアもナポレオンも、ともに亡くなったのは52歳のときである。であるからいずれも、かの信長のおはこだった 「敦盛」 でいう、「人間わずか50年」 をようやく越えた年齢にすぎない。 たしかに、「人間わずか50年」 とすれば、50を越えた人が翁と呼ばれるのもしかたないかもしれない。だが、これはあくまでも二人が死んだ歳であって、実際に活躍したのはもっと若い頃なのであるから、やはり翁と呼ぶのはいささか奇妙な感じである。 ナポレオンについては、「那破烈翁」 という表記もあるので、これを縮めた可能性もある。ただし、そうだとしても、最後に翁の字を使うのはやはり奇妙である。それとも、歴史上の偉大な人物ということで、年齢にあまりこだわらずに、尊敬の意をこめて意図的に 「翁」 という字を使ったのだろうか。 この奈翁という言葉が使われている例としては、たとえば次のような文がある。 そは奈翁が雀が丘に立ちて莫斯科(もすくわ)を眼下に眺むるの画なり。佛蘭西兵士は銃剣のさきに帽を振りまわして万歳を叫び、奈翁は例のナポレオン帽に大外套、眼鏡持ちし手を背後に組み、黙然と莫斯科を眺む。 莫斯科は夢の如く眼下に隠見し、しかしてなんの煙にやあらん一団の蓬々たる者、斜に奈翁を掠めて、全体の画に「夢」の感を与ふ。エレスチヤギンの命意いかんを知らざれど、生は髣髴としてここに勝つの哀しみ、即ち勝利の悲哀を認めぬ。 これは、小説 『不如帰』 や大逆事件を論じた 『謀叛論』 で知られる徳富蘆花が、1906年、つまり日露戦争のあとの、講和条約への不満が世間一般にいまだ残っていた中で、当時の第一高等学校で行った、「勝利の悲哀」 と題された演説の一部である。 上に出ているエレスチヤギンとは、蘆花によれば、ロシアの反戦画家であり、日露戦争では、旅順艦隊の旗艦ペトロパウロスクに乗り込み、日本海軍が港に敷設していた水雷に船が触れたため、船もろともに海に沈んだとのことである。 それはともかく、明治の人らにとって、40代、50代という年齢の意味が、今のわれわれとはずいぶんと異なっていたことだけは、多くの人が指摘しているように間違いないだろう。当時の人々にとって、40代とはすでに立派に成熟した人間を意味していたはずである。 であればこそ、当時の人々は、シェークスピアやナポレオンのような50歳そこそこの人の呼び名に、翁という字をつけても、いささかも怪しがることがなかったのかもしれない。 実際、維新の三傑に数えられ、西南戦争で敗死した西郷隆盛も、死後にしばしば 「南州翁」 などと呼ばれているが、その一生は50年にも満たない。ついでにいうと、ロシア革命で政権を取ったときのレーニンも、頭こそはげていたがまだ47歳である。 ひるがえって現代を見るならば、先の首相は50歳を越えていたにもかかわらず、人間的な未熟さをさらけだしまくりであった。 年長者を敬い、長老をたてるのはもちろん悪いことではない。しかしながら、「やっぱり、せめて60は過ぎてないと首相は務まらないよね」 というのは、やはりいささか問題ではないかという気はする。 ちなみに、ナポレオンを打ち破った、当時のイギリス首相ウィリアム・ピット(通称 小ピット)という人が、最初に首相の座についたのは、弱冠24歳のときだったそうだ。なんと、今の杉村太蔵君よりも若い歳である。むろん、太蔵君に首相になってもらっては困るけれど。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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