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カテゴリ:雑感
うろ覚えの話だが、その昔、レーニンがトロツキーに、冗談半分でこうささやいたことがある。 「おれは病気になったら、絶対に党の医者には診てもらわないよ。やつらはやぶ医者ばかりだからね」 さすが、夢想家であると同時に、リアリストでもあったレーニンである。党と革命の理念に忠実かどうかということと、医者としての腕の問題とは別のことであることをちゃんと見抜いていた (あたりまえか)。 たぶん、普通の皆さんだって、自分が病気にかかったときに、人はいいけど腕はだめな医者と、人は悪いけど腕は確かな医者と、どっちを選ぶかと聞かれたら、後者を選ぶだろう。いくら人柄がよくったって、腕の悪い藪医者に診てもらいたいなどという酔狂な人はいまい。 世の中には、それとこれとは別の問題だよ、ということがいくらでもある。人柄はいいけど腕は悪いという医者を、あの人は藪だからね、といったからといって、それは別にその医者の人格まで批判しているわけではない。ところが、このような、それとこれとは別の問題だよ、ということを、つねに意識しておくことは、残念ながらそう簡単ではない。 とくに、ある人のことを盲目的に崇拝しているような人などの場合、その人のことを少しでも批判されると、すぐに理性を失い、頭に血が上ってしまって、あなたはあの人のことを判っていないとか、一部だけ取り上げて批判するのはおかしいなどと、むきになって言い出すのだ。 しかし、その人の人格とか、その人の意見の全体がどうであれ、そこに間違いがあれば批判されるのは当然のことである。その人が、どんなに正義感にあふれた優れた人格者であっても、間違った評価や判断を下すことは、世の中にはいくらでもある。 その点を批判した人に対して、全体を見ろだとか、大筋で一致しているのだから批判するな、仲間割れみたいなことをするな、などというのはこれまたおかしな話である。間違いがあれば、それを見つけた人が批判するのは当然のことにすぎない。 これが医者の腕とか、科学者としての力量とかいうことだと、基準が比較的はっきりしているので、わりと判りやすい。しかし、社会的な問題や政治的な問題のように、そもそも基準が明確でない場合、どうしても人は自分が尊敬する人や、崇拝する人の考えを盲目的に受け入れたり、親しい人や仲間内のほうを庇いがちになる。 しかし、そのような態度というものは、ようするにひいきの引き倒しにすぎない。仲間内だから批判はやめましょうなんて言葉ほど、馬鹿げたものはあるまい。 批判を封じるための 「大同小異」 論など、くそくらえである。そんなことで作り上げた 「団結」 など、どうせ屁のようなものである。 もっとも、こういうことは昔からあることで、いまに始まったことではないのだけどね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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