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カテゴリ:雑感
豊臣氏が滅亡したのは、今から400年ほど前に起きた、冬の陣と夏の陣の二度にわたる大阪の役によってである。この役については、秀吉の息子 秀頼が方広寺に納めた鐘に刻まれた 「国家安康」、「君臣豊楽」 の銘に、家康側が難癖をつけたとか、冬の陣での約束を破って、家康側が城の外堀だけでなく、内堀まで埋めようとしたとか、いろんな話がある。
幕府を開いて、すでに天下を統一した家康にとって、大阪という重要な場所に天下の堅城を構えて、いまなお家康の権威を無視し続ける、秀頼と淀君の存在がうっとおしかったのは間違いない。しかし、この時点で、はたして家康に豊臣氏を完全に滅亡させようという意思があったとは、必ずしも断言できないようだ。 しかし、豊臣方と徳川方の間に不穏な空気が立ち込め始めると、大阪城には、夢よもう一度とばかりに、一旗あげることを目論んだ牢人らが続々と詰め掛け、無謀にも家康と一戦を交えようという雰囲気が醸成されてゆく。そんな中で、衝突すればとても勝ち目などなく、結局は豊臣の滅亡にいたることを気遣っていた、大阪方の中の和平論者らは、次々と城から排除されていくことになる。 この事件の場合は、たしかに淀君自身がとても誇り高い女性であったようだから、このような経過はしかたなかったのかもしれない。何万もの牢人を全国から集めて召抱えたのも、自分たちが意図してやったことであるから、豊臣の滅亡という最終的な結末も、いわば 「自業自得」 のようなものなのかもしれない。 いつの世も、争いが始まると、待ってましたとばかりに、どこからか頼みもしない援軍がぞろぞろと集まってくるものである。彼らは、争いのなかで手柄をたて、名を挙げるのが目的であるから、争いが沈静化してしまっては面白くない。であるから、こういう人々は、たいていの場合、争いをおさめることよりも、争いを煽り立てることのほうに関心を持つものである。 その結果、当の本人が、たとえ内心では、これはやばいかな、このまま行ったらまずいかな、などと思っていても、せっかく集まってくれた援軍の手前、弱気なことを言うわけにはいかなくなってくる。つまり、引くに引けなくなってくるのである。手を叩いて、「がーんば!」 などと励ましてくれる大勢の支援者の手前、あっさりと自分の非を認めてしまっては、大将の沽券にも関わるというものである。 世の中のもめごとというものは、たいていの場合、そういう 「無責任な援軍」 のおかげで、かえってややこしくなったりする。その結果、早めにわびをいれておけば大事にならずに済んだことまで、大変なことになって、かえって不利な結末を迎え、面目を失ってしまったりするのである。 当事者をそっちのけにして、支援者ばかりが盛り上がり、その結果、肝心要の当事者が置いてきぼりを食らうというようなことも、昔からあちこちの運動で見かけることであるが、それと同じように、なにかもめごとが起きたときも、基本的に周囲の人間は黙って見ていたほうがよい。少なくとも、無責任に争いを煽り立てるようなことはしないほうがよろしい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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