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カテゴリ:社会
岩国市長選以来、最近は次々といろんな事件や事故の報道があいつぎ、一つ一つの報道を追いかけるのもなかなかたいへんな状況だが、その中でもひときわ異彩を放っていたのが、国際派ジャーナリストを自称している、ドイツ在住のクライン孝子とかいう人の発言である。 7. 事件の進行と,マスコミ,漁業関係者の動きの早さが,
ご本人は上のメールの中で 「極端な想像力」 と称しているが、こういうのは 「想像力」 とは言わない。正しくは、「妄想力」 と言うべきである。その違いは、客観性に対する関係にある。自らの主観性のみに立脚し、対象への客観的な眼差しを欠いた想像というものは、「想像力」 などではなく、ただの愚劣な 「妄想力」 の産物でしかない。 本当の想像力というものは、むしろそのような独断的な先入観だけに立脚し、しかもまったくもって陳腐でしかない 「妄想」 にふけることを自らに抑制するためにこそ、働かせるべきものである。 おそらく、このような人たちにとっては、「国家」 や 「軍隊」 といった非人格的な存在は、なにやら崇高な使命を帯びたものとして 「感情移入」 しやすい存在なのだろう。それに対して、日々自分の腕や足で生活の糧を稼いでいる具体的な個人は、尊厳や崇高さという感情も呼び起こさない、ただの豆粒のようなものに過ぎないのだろう。 行方不明の親子の無事を祈って、海岸で読経し、また泣きの涙で親子の捜索を諦めた漁民らは、彼らにとってはおそらく、古臭い習俗にまみれた 「無知蒙昧」 で軽蔑すべき存在なのであり、そのような姿からは、まっとうな想像力を刺激されることすらないのだろう。 だが、そのような 「板子一枚下は地獄」(なごなぐ雑記) という危険と隣りあわせで日々暮らしている人間と、その生活に思いを寄せることのできない人間らこそ、もっとも無知蒙昧な存在というべきなのではないだろうか。 倒錯しているのは、いったい誰なのだ。まったくもって、人間、無駄に歳をとりたくはないものだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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