昨日から今日にかけて、西日本では今年初の黄砂が観測されたそうだ。昼過ぎに外へ出てみると、あちこちの駐車場に停めてある車が、どれも頭から泥水を被ったかのように細かい砂で汚れていた。こういうときは、車なんぞ持っていなくてよかったと本当に思う(実は、わたくしは車の免許も持っていないという、今どき珍しい絶滅危惧種なのです)。
文芸春秋社の創立者であり、芥川賞と直木賞の創設者でもある菊池寛のごくごく短い小説に 「形」 というのがある。「忠直卿行状記」 などと同様に歴史を題材にした短編だが、主人公は中村新兵衛という戦国の世の槍の名人である。
この名人、あるとき明日が初陣という若侍から、自慢の 「猩々緋と唐冠の兜」 を貸してくれと頼まれた。この若侍を幼少の頃から可愛がってきたという主人公、「あの服折と兜とを着て、敵の眼をおどろかしてみとうござる」 という彼の頼みを、「子供らしい無邪気な功名心」 として、こころよく受け入れた。
さて、戦の当日、新兵衛の 「猩々緋と唐冠の兜」 を借り受けた若侍は、そのおかげで初陣の手柄を立てることができた。その姿を 「自分の形だけすらこれほどの力をもっている」 と満足げに見ていた中村新兵衛、こんどは自分の番だとばかり、槍を構えて敵陣に突っ込んでいったところ、どうもいつもと勝手が違う。最後は、とうとう敵の槍を腹に受けてしまった。
そりゃそうである。その日の新兵衛は、いつもの 「猩々緋と唐冠の兜」 を例の若侍に貸して、ごく普通の別の鎧兜を着けていた。だから、敵兵はだれもこれが噂に聞く天下の豪傑、中村新兵衛かなどと思いはしない。であるから、みな怖れもせずに遠慮会釈なしに突きかかってくるというわけだ。
この主人公、むろん最初の名声は自分の力で得たものだろう。それがやがて評判となり、評判が評判を呼び、いつしか実力以上の怖れを相手に起こさせるようになり、その結果、ついにはおのれの力を過信するようになってしまったというわけだ。
こういういつのまにやらの勘違い人間、確かにいつの時代にもいるものである。現代ならば、さしずめ政治家の議員バッジや大会社の名前、役職、肩書などが、この短編の主人公が身に付けていた 「猩々緋と唐冠の兜」 に当たるだろうか。
たとえば、産経新聞の子会社だという産経デジタルのサイトizaでは、記者ブログというのを開設している。インターネットの普及に伴う新聞離れをなんとかしたいというのは、分からないでもない。新聞社もお互いに競争しているのだから、いろいろと知恵を絞るのも結構である。
その中で、「はなさんのポリログ」なるブログを開設している花岡信昭なる人、自分の記事があちこちで非難されたことについて、「当方は何をいわれてもいいが、関係する新聞社や大学、団体などを引き合いに非難を浴びせるというのは、フェアーとはいえない」 とのたまっている。どうやら、この人もこの種の勘違いに陥っているようだ。
そもそも、この 「記者ブログ」 は、産経デジタルが提供しているizaのコンテンツなのだから、「関係する新聞社」 が論議の対象になるのは当たり前である。それに、問題となった最初の記事ときたら、「最近の若い連中は」 式の陳腐な発想と、ただの 「左翼嫌い」 が結びついた類のレベルでしかない。その程度の記事が良くも悪くも論議を呼んだのは、なにはともあれ、彼が全国紙の1つである「産経新聞」の 「客員編集委員」 という肩書を持っているからだろう。
「記者ブログ」 と銘打ち、しかも個人的な身の回りの話ならともかく、そこで政治的社会的に影響の大きい事件について語るのであれば、記者として取材するときと同様の慎重さと、新聞紙面に公開する場合と同様の心構えが必要なのではないのか。
自らの足で取材し事実に基づいて報道するという記者の初心など、もうとうに忘れたのかもしれないが、自分が直接取材したわけでもない遠くの事件について、あれこれ憶測を交えて勝手なことを語るのであれば、ただの素人と同じである。それならば、「記者ブログ」 などと偉そうな肩書を付けるのはやめたが良い。
虎の威を借りた狐というものはたしかに最低である。しかし、自分もそれと同じことをやっていながら、ただ本人が気付いていないだけというのは、もっとみっともないのではないだろうか。
訂正と追記:
「はなさんのポリログ」 ってよく確かめたら、iza の 「記者ブログ」 じゃなくて 「ユーザーブログ」 だった。えっ、この人、産経の 「客員編集委員」 じゃないの? ああ、客員だから、社員じゃないってことか。まあ、どちらにしても 「産経新聞」 の関係者であることに変わりはないようだから、本文はそのままにしておく。
それから、自分で自分を 「はなさん」 なんて呼ぶのも、恥ずかしいからやめたほうがいいと思う。「やまさん」 だって 「ごりさん」 だって、自分で自分をそんなふうに言いはしなかったはずである。
もうひとつ、ご本人いわく、「建設的な批判は大いに歓迎」 なのだそうだが、「建設的な批判」 というものは、もともとの意見が建設的であってこそ、初めて可能なのだということもお忘れなく。
追記の追記:
菊池寛の命日は、なんと3月6日だった。これは、まさにユングのいうシンクロナイゼーション、つまりただの 「偶然の一致」 である。