「阿Q正伝」 とは、言うまでもなく 「狂人日記」 と並ぶ魯迅の名作である。「藤野先生」 で書いているように、仙台留学時代に、日本軍によりスパイ容疑で中国人捕虜が銃殺されるのを、同じ中国人が喝采し歓声をあげる姿をスライドで見た魯迅は、医学では混乱した国を救えぬと考えて、医学を捨て文学の道へ進むことを決意する。
阿Qは家もなければ定職もなく、その日その日の日雇いで生活しているが、「自尊心」 だけは人一倍強い男である。村の連中も城内に住む住民らも、「一人として彼の眼中」 になく、「はなはだしきは、ふたりの「文童」にたいしてさえ、彼は歯牙にもかけぬふうのところがあった」 ような男であり、「末荘のやつらは、世間知らずのおかしな田舎ものときているから、城内の魚のから揚げさえ見てやしないのだ」 などと考えて、心の中で他人を見下している男である。
かの池乃めだかのギャグではないが、誰かに殴られたら、「せがれにやられたようなものだ。いまの世の中はさかさまだ」 と考えて自分を慰め、しばらくすると 「満足して、意気揚々と引きあげた」 という男であり、どんな場合にも、「たちまち、敗北を変じて勝利となすこと」 ができるという男である。
彼の口癖は、「おいら、むかしはおめえなんかより、ずっと偉かったんだぞ」 であり、「すべて尼というものは、必ず和尚と私通するものであり、女が一人歩きをするのは、かならず男をひっかけるためであり、男と女が二人で話をしているのは、かならずあやしい関係がある」 というのが、その正しさを信じて疑わぬ彼の 「学説」 である。
「したがって彼は、この連中を懲らしめるために、しばしば睨みつけたり、大声で 「不心得を責め」 たり、あるいはまた、人通りのない場所なら、背後から石をぶつけたりする」 そういう男なのである。
先のプリンスホテルによる日教組の教研集会拒否と、今回の映画館によるドキュメンタリー映画 「靖国」 の上映中止問題について、内田樹さんが次のように書いている。
平時にしたことを彼らが合理化できるなら、戦時においては同じふるまいを合理化することは一層容易である。
私の推論は間違っているだろうか?
それとも、日教組の集会は断るが、政府軍の戦車に追われて逃げ込んできた被迫害民族集団は命がけでお守りしますと言うのだろうか。
そうであれば、たいへん失礼なことを申し上げた。
だが、私の経験が教えるのは、平時に卑劣なふるまいができる人々は、軍国主義の時代や恐怖政治の時代にも同じ種類のふるまいを(もっと葛藤なしに)できるということである。
そのことを覚えておこう。映画館についても同じことを申し上げる。
この程度の圧力で上映を中止する映画館主たちは、これよりも強い圧力が予想される政治的状況におかれたら「言論の自由なんかなくてもいいです」という宣言書にただちに署名するだろう。
誰か教えて(内田樹の研究室)
「いやいや、そんなことはない。ホテルの予約を取り消したのも、映画の上映を中止したのも、あんな集会や映画など、一部の右翼によって引き起こされる厄介や面倒に比べれば、どうせたいしたことじゃないからだ。 いざとなれば、オレたちだって」 というのは、阿Qの理屈である。