|
カテゴリ:社会
満州事変の原因と 「満州国」 成立に関するリットン調査団による報告を不服として、国際連盟の総会で連盟脱退の大演説をぶって退場し、近衛内閣の下では外相を務めて日独伊三国軍事同盟と日ソ中立条約を締結するなど、戦前の日本外交で大いに 「活躍」 した松岡洋右は、少年時代に父親が事業に失敗して破産したことから、わずか13歳でアメリカにいる親戚を頼って渡米している。
その後、アメリカ人の家庭に使用人として住み込むなど、有色人種差別と闘い、様々な苦労を重ねながらの苦学の末に、オレゴン大学法学部をクラス2番の成績で卒業したのだそうだ。その苦労自体は、むろん賞賛に値すると言っていいだろう。 帰国後の彼は、外務省に入ってめきめきと頭角を表し、外務省を退職すると満鉄の理事から副総裁へ、さらに政友会に所属して郷里山口の選挙区から立候補し、みごとに当選して衆議院議員となる。同時に、イタリアの独裁者ムッソリーニを賞賛するなど、しだいにファシズムへのシンパシーを示すようになり、また浜口内閣下での幣原喜重郎による対米英協調路線を激しく批判して、大衆の喝采を浴び非常に人気を集めたという。 彼は、滞米中の経験から、国際通を自認し、世界の外交の舞台で日本が認められ尊敬されるには、自己の国益を積極的に主張しなければならない、安易な妥協をすることは相手の軽侮を招くだけであるということを信条として、強硬外交を主導したという。しかし、その結果はどうであったろうか。それはもちろん言うまでもない。 「アメリカ人に対する行動の仕方としては、たとえ嚇されたからといって、自分の立場が正しい場合に道を譲ったりしてはならない。そのためにもし殴られたら、すぐその場で殴り返さなければいけない。一度屈服すれば二度と頭を上げることが出来ないからだ。対等の待遇を欲するものは、対等な行動でのぞまなければならない。」 松岡の言葉
しかも、彼の内心の意図がどうであれ、その対米英強硬外交は、欧米に対して長年劣等感を抱いていた、一部の知識人をも含めた広範な大衆のナショナルな感情に火をつけてしまい、国内的には右翼と軍部の台頭を招き、非合理主義的な思想や言動がまかりとおるようになる。そのような一連の動きは、やがて対中関係をめぐる抜き差しならぬアメリカとの対立の中で、ついには真珠湾攻撃へと帰着する。 こういった、国際事情通を自認し、外交において日本の 「国益」 を強調することの必要性を声高に主張している政治家たちの言動を見ていると、ついつい半世紀以上前の松岡の失敗を連想するのだが、はたして当人らに彼と同じ轍を踏んではならないという自覚はあるのだろうか。たぶん、彼らは松岡がなぜ失敗したのか、考えてみたこともないのだろうけど。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[社会] カテゴリの最新記事
|