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カテゴリ:社会
ここ二日ばかりはやたらと暑かった。すでに暦の上では夏にはいっているとはいえ、一部では最高温度が30度を越え真夏日を記録した地域もあるそうで、この先いったいどうなることやらと心配になってしまう。 共依存者とは、自己自身に対する過小評価のために、他者に認められることによってしか満足を得られず、そのために他者の好意を得ようとして自己犠牲的な献身を強迫的に行なう傾向のある人のことであり、またその献身は結局のところ、他者の好意を (ひいては他者自身を) コントロールしようという動機に結び付いているために、結果としてその行動が自己中心的、策略的なものになり、しだいにその他者との関係性から離脱できなくなるのである。 (加藤篤志) もっとも、人間と人間の関係というものは、多かれ少なかれ、なんらかの形で互いに依存しあうものであり、また 「他者による承認」 というのは、誰もが持っている人間の本源的な欲求でもある。したがって、これとよく似た関係は、その強さを問わなければ、さまざまな場面で普通に見られるものでもあるだろう。 たとえば、あちらこちらにいる、トンデモ系の 「評論家」 とその熱心な弟子や、小宗教の 「教祖」 とその信者、テレビで人気の 「人生相談回答者」 とその熱烈なファンというような関係も、やはり一種の共依存に近いものがあるように見受けられる。 そこでは、「優しさ」 を与える人は 「優しさ」 を求める人から、まるで大食いのひなに餌を与える母鳥のようにつねに 「優しさ」 を与え、「優しさ」 を求める人に対して、どんな場合にも 「優しさ」 をもって接することが求められている。 いっぽう 「優しさ」 を与える人は、そのように 「優しさ」 を求める人らの欲求に一貫して応え続け、彼らから依存され頼りにされることに自らの存在意義を見いだし、そのことで自らの自尊心を満足させることもできるというわけだ。 しかし、このような関係では、「優しさ」 を与える人は 「優しさ」 を求めている人らから、つねに 「優しい」 人間であることを求められているのだから、当然ながら、そのストレスはきわめて大きいに違いない。 そのような関係がいつまでも続けば、いずれ 「優しさ」 を与える人は、「優しさ」 を求める人らの 「優しさ」 に対する欲求の餌食として食い尽くされ、自らを見失ってしまうということにもなりかねない。したがって、そのような関係は、たぶんいつかどこかで破綻せざるを得ないだろう。 言うまでもないことだが、お釈迦様かキリスト様でもない限り、人間には 「優しさ」 ばかりを振りまいていることなどできはしない。その反動は、たとえばそのような特殊な自閉的関係の 「外部」 に対する、無意識の敵意や過度の猜疑心といった形で、かならずどこかに現れざるを得ないだろう。 たぶん、こういった一種の共依存に近い関係を終わらせるには、「優しさ」 を与え続けてきた側の人が、どこかでそのことに気付いて、そのような役目を降りる以外にないだろう。あとは、「優しさ」 を与える役を引き受けていた人に対して、ただただ 「優しさ」 を求め続けてきた人らの側の問題なのである(*)。
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