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カテゴリ:社会
秋葉原で起きた事件については、すでにいろいろな情報が飛び交っている。いわく、母親は非常に教育熱心で、小中学校ではとても優秀な生徒だった。だが、その一方でキレやすい性格でもあった。 しかし、中学時代の卒業文集に描いていた、アニメを模したと思われる剣を持ったイラストまで持ち出してきて、事件となにか関係があるかと匂わせるような報道などは、まったくの噴飯ものである。そんなイラストなど、おそらく同世代のアニメに興味があり、多少の絵心がある者であれば、ごく普通に描いたものにすぎまい。 当たり前の話でしかないが、こういう特異な事件が、一つや二つの単純な原因などで説明できるはずがない。柄谷ふうに言えば、そのようにして提出される、あれやこれやのまことしやかな 「原因」 など、発生した 「結果」 をもとに、その解釈のために遡行的に構成されたものにすぎない。 だが、ただ一つ言えることは、事件の前に会社からリストラ話を聞かされたことが、それまでの彼が抱えていた様々な不満や不安を増大させ、さらに、おそらくはなにかの手違いで、たまたま自分のつなぎが見つからなかったというごくごく些細な出来事が、すでに大きく乱れかけていた彼の心の平衡を壊し、事件へと突っ走る引金になったということだ。おそらく、それ以降の彼は、もはや正常な精神状態ではなかったのだろう。 似たような犯罪などでも見られることだが、きわめて異常な精神状態のもとでも、人間はときには周囲が驚くほど冷静に判断し行動することができる。ただ、その場合、判断の規準や行動の目的が、すでに 「正常」 な世界のものではなく、その心的世界全体が、もはや 「異常」 としか言いようのない領域に入り込んでいるというだけのことだ。しばしば誤解されがちなことだが、人間にとって 「合理性」 と 「非合理性」 とは、けっして単純に対立したり排斥しあってばかりいるものではない。 『工場日記』 などで知られるシモーヌ・ヴェイユは、かつて自分の工場体験にふれてこんなことを書いていた。 恐怖。一日のうちで心が何らかの不安で多少なりとも圧しひしがれないですむような瞬間はまれだ。朝は、これからの一日に対する不安。朝六時半、ビランクールに向かう地下鉄に乗れば、乗客の大半がこの不安にひきつった顔をしているのが目につく。遅刻しそうだとしたら、タイム・カードの不安。 就業中は、達成に苦労している連中には、充分な速さで仕事が進まないという恐怖。無理して調子を上げようとして、オシャカを出すのではないかという恐怖。スピードが一種の酔い心地を産み、これが注意力をゼロにするからだ。些細な事件が起こって仕損じや道具をこわすようなことになるかもしれないという恐怖。 だれもが一般にもつのは、怒鳴られはしないかという恐怖。ただ怒鳴られるのを避けるためだけに、さまざまな苦痛にも甘んじて耐えるだろう。どんなにささやかな叱責でも、口答えできないのだから、強い屈辱なのだ。ところで、叱責を喰うことになるような事態は数えきれないほどある!
数年前に流行ったSMAPの歌 『世界に一つだけの花』 に、こんな一節がある。 そうさ 僕らも世界に一つだけの花
しかし、自分がこの世界で 「もともと特別なオンリーワン」 であるということが、彼にとっては 「やりたいこと…殺人/夢…ワイドショー独占」(携帯掲示板への投稿)というようなことでしか確認できなかったのだとしたら、これはずいぶんとやりきれないことである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.06.11 16:21:54
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