|
カテゴリ:雑感
昭和に流行った松坂慶子の 「愛の水中花」 という歌によれば、「これも愛 あれも愛 たぶん愛 きっと愛」 なのだそうで、そのくらい、「愛」 というものは多種多様であり、複雑なのであり、また奇奇怪怪なものなのである。 だから、人間にとっての 「愛」 とは、その本性からしてつねに利己的なものだ。それは、人間的な 「愛」 というものに伴う本質的な矛盾なのであって、むろんそれを完全に否定することも非難することもできない。子を愛する親が、他人の子より自分の子を優先するのは、けっしてつねに望ましいことではないが、極限的な状況において、人がそのような行動に出ることを非難することは、誰にもできない。そして、われわれはみな人間なのだから、そのような人間的で利己的な愛ではない 「愛」 などは想像もできない。 だから、かのウィトゲンシュタインの名文句を借りれば、「愛」 とはまさに 「語りえぬもの」 の最たるものであり、そのようなものについては 「沈黙しなければならない」 ということになるだろう。 とはいえ、それでもそのような 「語りえぬもの」 についても、なんとかしてなにごとかを語ろうと欲するのもまた、人間の本性というものである。だが、だとすれば、「愛」 について語ろうとする者には、せめておのれが 「語りえぬもの」 について語ろうとしているのであり、そのような 「語りえぬもの」 について語るということが持つ矛盾についての自覚ぐらいは、最低限必要なことではあるまいか。 言葉というものには、あることを表すと同時に、あることを隠蔽するという働きがある。とりわけ、観念としての内実すら明瞭でない言葉を無自覚に多用することには、そのような空疎な言葉によって現実を隠蔽すると同時に、そのような言葉を発語する者自身を、夢の迷路の中へさまよわせるという催眠効果もある。それを一言で言うならば、「虚偽意識」 としてのイデオロギーの効果ということになるだろう。 「惜しみなく愛は奪う」 の中で、有島はこう言っている。 言葉は意味を表わすために案じ出された。しかしそれは当初の目的からだんだんに堕落した。心の要求が言葉をつくった。しかし今は物がそれを占有する。 吃ることなしには私達は自分の心を語ることが出来ない。恋人の耳にささやかれる言葉はいつでも流暢であるためしがない。心から心にかようためには、なんという不完全な乗り物に私達は乗らねばならぬのだろう。 のみならず言葉は不従順な僕である。私達はしばしば言葉のために裏切られる。私達の発した言葉は私達が針ほどの誤謬を犯すや否や、すぐに刃をかえして私達に切ってかかる。私達は自分の言葉ゆえに人の前に高慢となり、卑屈となり、狡智となり、魯鈍となる。 そもそも、人間の感情というものは、「愛」 だの 「憎」 だのといった観念によって構成されているわけではない。そのような観念は、抽象的な構成物にすぎないのであり、ぶっちゃけたことを言えば、意識の中に存在するのは、「愛」 も 「憎」 も、それからその他のいろいろなものもごちゃ混ぜになった、つねにただ一つの感情なのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[雑感] カテゴリの最新記事
|