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カテゴリ:社会

 せっかくクリスマス用のネタを考えていたのだが、あいにく仕事と重なってしまい、あっという間にクリスマスは去ってしまった。そういうわけで、そのネタは来年まで大事に取っておくことにしよう。

 法学や倫理学の教科書によく出てくる話に、「カルネアデスの板」 という話がある。カルネアデスという人は、紀元前のギリシアにいた哲学者であるが、彼が提出した問題だということで、こう呼ばれているらしい。もっとも、カルネアデス本人は著作を残さなかったらしく、この話はキケロの 『国家について』 という著作での話が基になっているということだ。以下は、Wikipediaからの引用である。

 一隻の船が難破し、乗組員は全員海に投げ出された。一人の男が命からがら、一片の板切れにすがりついた。するとそこへもう一人、同じ板につかまろうとする者が現れた。しかし、二人がつかまれば板そのものが沈んでしまうと考えた男は、後から来た者を突き飛ばして水死させてしまった。その後救助された男は殺人の罪で裁判にかけられたが、罪に問われなかった。


 この法理は、現在では 「緊急避難」 と呼ばれており、日本の刑法でも、外形的には違法行為に当たるが、法による処罰を免れる場合として、「正当防衛」 と並べて次のように定められている。

(緊急避難)
第37条   自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。

 東大の元教授で最高裁判事を務めたこともある団藤重光は、著書の 『刑法総論』 の 「緊急避難」 の節で、「緊急は法を持たない」 という法格言を引用し、それに付した注で 「グローティウス、プーフェンドルフ等の自然法学者は、緊急状態では法秩序そのものがなくなると考えていたらしい」 と書いている。

 グロティウスは 「国際法の父」 として教科書にも載っている有名なオランダの法学者、プーフェンドルフはドイツの法学者であり、いずれも17世紀の人だが、そこにある思想は、せんじ詰めれば、人間の肉体的な生存そのものの要求は、法的秩序や合法性よりも優先されるということだろう。

 法学的に言えば、この場合に違法性が阻却される理由としては、そのような場合には、もはや法の順守を期待できないために責任が阻却されるためだという 「期待可能性理論」 であるとか、いろいろ議論があるようだが、ややこしいことは抜きにすれば、その根拠はやはり上に書いたことに尽きるだろう。

 むろん、誰も彼もが勝手に 「緊急避難」 を主張すれば、それこそ 「万人の万人に対する闘争」 といった事態も生じかねない。だから、そこには 「緊急性を要する」 とか 「ほかに手段がない」 といった制限があるのは当然である。また 「緊急避難」 が違法性阻却事由として認められているからといっても、侵害された法益がきわめて軽微な場合を除いて、その主張がそのまま認められることも、実際にはそうあることではない。

 しかし、もし目の前に緊急の医療処置を必要とする者がいれば、たとえ医師免許を持っていなくとも、それがそう難しい行為でない限り、それなりに心得がある者や、場合によってはただの素人であっても、そのような行為を行うことは可能であるし、そのために医師法違反で処罰されることもあるまい。その場合には、形式的な合法性よりも目の前の人を救うことのほうが優先される。

 また操縦士が失神して飛行機が墜落しかけているとなれば、免許は持たないが多少は心得はあるという者が代わりに操縦したとしても、無免許操縦で罪を問われることはないだろう。なんと言ったって、そのまま放置して落っこちてしまえば、元も子もないことだし。

 では、たとえば、気温が零下にも下がるような真冬の夜に、このままでは凍死しかねないと考えた者が、屋根があり外気を遮断することのできる駅の構内や公共施設に制止を無視して、あるいは壁を乗り越えたりして無断で立ち入ることは、法的に言っていかなる問題を惹起するだろうか。

 そのような行為は、やはり 「住居侵入」 などの罪に問われるのだろうか。むろん、そのような行為を行わずに戸外にいた場合、実際に凍死したかどうかは、そうなってみなければ分からない。しかし同時に、そうなってからでは手遅れという話でもある。

 少なくとも理念として言う限り、法は万人のためにある。つまり、法とは単にあれやこれやの禁止事項をお上が勝手に定めた掟ではなく、それを守ること、言い換えればそれが万人によって守られることが、たとえ直接的にではなくとも、万人にとってめぐりめぐって利益になるからこそ法なのであり、法としての意味がある。

 終戦直後の食糧難時代に、山口判事という人が闇米を食べることを拒否して餓死したという話がある。この話は、しばしばその遵法精神の高さを表す美談として語られる。それが妥当かどうかははともかくとして、判事として国民に対し法を強制する立場にあった人間としては、それは一つの責任の取り方だったのかもしれない。

 しかし、法を守ることが 「生きる」 ということと相反するなら、そのときに法を守るということにいったいいかなる意味があるだろうか。「法律で決まっているから」 とか 「規則でそうなっているから」 ということは、理屈を言う限りでは、そのような法律や規則に従うことを他人に要求する根拠にはならない。言うまでもないことだが、この世に完全な法などは存在しないのであり、だからこそ法は万能ではない。

 法や規則を守ることが、その人自身にとっても、なんらかの利益をもたらすものでなければ、少なくともその人にとっては法を守ることに意味はあるまい。むろん、現実には法律や規則を独断で無視すれば、様々な不利益を被ることも予想されることであり、それが人々がしばしば、内心では不合理だと思っているような法にも、文句を言わず従っている理由の一つでもあるわけだが。






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Last updated  2010.02.03 13:01:01
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