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カテゴリ:歴史その他

 ちょっと前の話になるが、内田樹さんがオバマ新大統領の就任演説に触れてこんなことを書いていた。(参照)

オバマ大統領のスピーチには、「アメリカはこうだが、ロシア(中国、EU、イスラム諸国などなど)はこうである」という水平方向の比較から「アメリカの進むべき道」 を導くという論理操作が見られない。

アメリカ人のナショナル・アイデンティティを基礎づけ、賦活させるためには「他国との比較」は必要ないのである。

「われわれ」 が何ものであるかを 「他者の他者」 というかたちで迂回的に導き出す必要がないのである。


 アメリカになど行ったこともなく、アメリカ人の友達もおらず、アメリカについてなど映画や本、報道などでしか知らない人間が言うのもなんだが、アメリカにとって 「他国との比較」 がなぜ必要ないかというと、それはたぶんアメリカがそれ自身、ひとつの 「世界」 だからである。

 実際、アメリカの地図を開いてみると、そこにはポーツマスやグラスゴーといったイギリス起源の地名のほかに、世界中の地名が見つかる。ニューオーリンズとは 「新しいオルレアン」 のことだが、テキサスにはパリがあり、アイダホにはモスクワがある。ニューヨーク州にはポツダムもローマもあるし、イサカというギリシア語の地名まである。サンノゼやロサンゼルスはスペイン語だが、むろん先住民語起源の地名もあちこちにある。

 南部や西部にあるフランス語・スペイン語起源の地名は、もとはそこがフランスやスペインの植民地だったからだし、聖書やその他の古典からとってつけた地名というのもあるだろう。しかし、移住者の集団が町を作り、そこに名前を付けるときに、あとに残してきた故国の地名をつけるということは、古来いくたの地域で見られることである。

 学校の下校時間になると、ドボルザークの 『新世界より』 がなぜか流れるが、まさにアメリカはドボルザークも言うように、その中に 「旧世界」 の全体を包含したもうひとつの世界なのである。モンロー主義と呼ばれたかつてのアメリカの 「孤立主義」 も、おそらくは自分たちの国は 「旧世界」 からは独立した、ひとつの世界であるという自負に基づいたものでもあったのだろう。

 『波止場』 や 『エデンの東』 など、多くの名作を撮ったエリア・カザンに、『アメリカ アメリカ』 という作品がある。ずいぶん前に見ただけなのであまりよく覚えていないが、その中に船で大西洋を渡ってきた移住希望者らが、ニューヨークの港の入口に立つ 「自由の女神」 を見つけて、舷側から身を乗り出し 「アメリカ! アメリカ!」 と叫ぶ場面があった(ような気がする)。

 その 「自由の女神」 の台座には、「疲れし者 貧しき者 重荷を解いて 休みなさい 故郷を追われし哀れな者 すべては私に委ねなさい 黄金の扉のそばで、私は光を掲げよう!」 という詩句が刻まれているという。(参照)

 メイフラワー号による清教徒の移民以来、多くの人がアメリカにやってきた。ある者は 「革命」 から逃れ、または 「革命」 の敗北による弾圧から逃れるために、またある者は 「戦争」 や民族的な 「迫害」、「貧苦」 から逃れるために。

 1848年のドイツ三月革命が敗北すると、多くのドイツ人が海を渡った。その一人であるカール・シュルツは、のちにリンカーン大統領の下で国務長官を務めたという。1917年のロシア革命でも、多くの亡命者がアメリカに渡った。レーニンに権力を奪われたケレンスキーもまた最終的にアメリカにわたり、なんと1970年まで生きていたそうである。むろん、ナチによるユダヤ人弾圧と欧州の戦火から逃れるためにも、多くの人が海を渡った。

 戦後には、中国やベトナム、カンボジアの戦火、さらにその後の混乱を避けて、多くの難民がアメリカに移住した。天安門事件でも多くの学生らが海を渡ったし、難民ではなくとも、世界中から多くの人が 「貧困」 からの脱出という夢を求めて、いまなおアメリカを目指している。

 「アメリカ アメリカ」 を撮ったエリア・カザンはトルコによる迫害から逃れてきたギリシア系移民だが、サローヤンは同じくトルコ出身アルメニア人移民の子である。ヘンリー・ミラーはドイツ系移民の子であるし、フィッツジェラルドはアイルランド系、アーサー・ミラーやサリンジャーはユダヤ系、ナヴォコフはロシア系であり、俳優のアル・パチーノはイタリアから来た移民の子である。

 たしかに、アメリカはひとつの社会であり国家である。移民の世代がすすめば、やがて彼らは故国の人々とは異なる 「アメリカ人」 になっていくだろう。アメリカに代々住む黒人もまた、アフリカの黒人と同じではない。しかし、それでも移民たちはみな、自分たちの故国の文化と歴史を背負ってやってくるのであり、それはそう簡単に消失するようなものではない。

 アフリカから意思に反して強制的に連れてこられ、自己の言葉や文化を徹底的に奪われた黒人奴隷の子孫たちですら、ジャズやブルースといった現代の音楽になにがしかの民族性をとどめている。むろん、そこには抑圧されてきたがゆえに、かえって強固に生き続けてきたということもあるだろうが。

 その意味では、国家としてのアメリカの歴史の短さなどを言い立てることにたいした意味はない。たしかに 「アメリカ的」 なるものはあるかもしれない。とはいえ、ただひとつの 「アメリカ人」 などは、どこにも存在してはいない。

 「国家」 としてのアメリカはたしかにひとつである。だが、アメリカ人はひとつではない。また、東部や西部の大都市圏だけがアメリカなわけでもない。そういった地域がアメリカの政治や経済に対して大きな影響力を持っているのは事実だろうが、だからといって、そこに住む少数の特別の人々の意思や利害だけで、アメリカの政治が動かされているわけでもあるまい。

 戦後世界で一方の覇権を握り、ソビエト崩壊後は唯一の 「超大国」 として世界に君臨してきたアメリカの行動を批判することは、ある意味でたやすいことだ。むろんCIAによる各地での破壊活動や、退陣したブッシュ政権による、国際世論を無視した 「単独主義」 的な行動が非難に値するものであることは言うまでもない。

 だが、現代において他を圧倒する国力を有するアメリカは、良くも悪くも、また自ら望もうと望むまいと、世界に対して責任を負わざるを得ず、またそれを果たさざるを得ない。むろん、その責任の果たし方は、ひとつの問題たりうることだ。しかし、アメリカがいまなお 「ひとつの世界」 であるとしても、もはや 「旧世界」 から隔絶したモンロー主義の時代になど戻れないのは自明のことであり、そのことを無視した批判は意味をなさない。

 アメリカがイスラエルを一貫して支持している背景には、むろん国際政治上の思惑や国内における種々の勢力の存在など、いろいろな要因が存在するだろう。だが、そこには先日なくなったポール・ニューマンが主演した映画 『栄光への脱出』 に描かれたような、移住による 「理想国家」 建設というイスラエル 「建国」 の物語が、移民国家としては大先輩にあたるアメリカのナショナル・ヒストリーと重なる部分があるというのも、もしかするとひとつの要因なのかもしれない。

 二日と二晩、列車は走りつづけた。いまやっとカールにも、アメリカの広大さがわかってきた。飽きることなく彼は窓から外を眺めた。そのあいだ、ジャコモもいっしょに窓の方へ体をのりだしていたものだから、トランプに熱中していた、向かいの席の若者たちは、やがて遊びにも飽いてしまうと、自分たちの方からすすんで、窓際の席をジャコモにゆずってくれた。カールは彼らに礼を言った。ジャコモの英語ときたら、まだ相手によっては聞き取りにくかったからだ。……

 最初の日、列車は高い山脈の間を縫って走りつづけた。青味をおびた、黒色の岩石の塊が、鋭い楔のような形になって、列車のすぐ間近までおし迫ってきた。すると、乗客たちは窓越しに身をかがめて、そのてっぺんを見上げようとやってみるのだが、ついにだめだった。暗い、幅のせまい、引き裂かれたような谷間が口を開いているところもあった。その谷すじの方向を指さきでたどっていくと、そのはてに谷は消え去って、こんどは川幅のひろい渓流があらわれた。
フランツ・カフカ 『アメリカ』 より  
   

 むろん、カフカはアメリカを訪れたことはない。チェコのプラハ(当時はまだオーストリア帝国領だったが)に住んでいた彼が、けっして長くはない生涯の中で訪れたことがあるのは、せいぜいドイツやフランス、北イタリアなど、いわば彼の国の周辺地にすぎない。





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Last updated  2010.04.19 23:00:12
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