命の平等について
少し人権の話をしようと思う。 川の水は川上から川下に流れる。あるいは1+1=2これらは,証明ができる。価値の問題ではなく,事実の問題である。「なぜ,人を殺してはいけないのか。」という問題が少し前に世情を賑わした。ある人は,この質問をすること自体が愚問だといったり,どんな育ち方をしたのか,質問者に対し,問題にされた。いろいろな識者がこの問題について,答えていた。この問題は実は,自然科学と,社会科学には全く方法論が別であることを考えていない。なぜ, 道路交通法は人を道路の右側に歩かせるのか。そのように決めた方が便利だからである。道路は,人は右とした。事実ではなく,人が決めたのである。そして,「なぜ人を殺してはいけないのか。」人を殺さない方がよいとしたのである。人間が社会生活を送るために,最も人間の命が価値があると決めたのである。したがって,人間の命がもっとも価値があることは,事実の問題ではなく,価値の問題である。価値の問題であるから,ヒットラーはユダヤ人は,殺してもいい人間として人間の価値を否定したのである。もう一度考えてみたい。世の中で人間の命は無条件で一番価値があると考えるべきである。どんな人もこの世に生を受けた以上,無条件にその命に価値があるのである。命の価値が平等であると考えるから子ども,老人,障害者等々みな同じくその命は平等であることは論理帰結である。しかしながら,この問題は簡単ではない。イラクでは,異教徒の人間の価値に軽んじている。そして,わが国でも死刑の執行がある。このように人間の命は平等に扱われてはいないのである。「なぜ,人を殺してはいけないのか。」識者はこのように答えるのであろう。人間は当然に殺してはいけない。しかし,凶悪犯は国家は死刑執行してもよい,他人の命を奪ったから。識者とて,無条件に人間の命の価値を認めていないのである。ところで,フランスでは,死刑は禁止されているがさらにこれを憲法を改正して,憲法上定める動きがある。