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カテゴリ:沼田・小早川家領の原風景
写真からも、瀬戸内海が多島海であることがはっきりとわかります。 眼下には、江戸時代、港町として栄えた忠海の町。 画面ほぼ中央に大きく横たわる島は、伊予の河野氏や海賊衆の信仰をあつめた大山祗偽祇(おおやまずみ)神社が鎮座する大三島(おおみしま)。 その大三島がきれる左手方向に、かすかに白く見える2本の柱は、生口島(いくちじま/画面の左手に先端だけみえます)と大三島をむすぶ多々羅大橋(たたらおおはし)です。 この写真ではよくわかりませんので、その部分だけアップした写真を下に掲載します。 全長は1480メートルあります。 この橋のむこう(大三島と生口島の間)にみえる島は、伯方(はかた)の塩で有名な伯方島。 この伯方島と大三島にはさまれた鼻栗瀬戸(はなぐりせと)をぬければ、戦国時代、「日本最大の海賊」とよばれ、海の大名として瀬戸内海に君臨した村上武吉の拠点、能島(のしま)があります。 また、画面右手にかすかに写る赤い鉄塔のかなたにうっすらと見える島は、大崎上島(おおさきかみしま)です。 この大崎上島と大三島の間をぬければ、四国の波方(なみかた)に着きます。 波方には、「最高の海賊」として能島の村上武吉と「その座を競いあってきた」来島(くるしま)の村上氏の波方館(はがたのたち)がありました。 海城として築かれた来島へは、この波方港から小さなフェリーで5分という近さです。 このように、忠海は、日本最大の海賊衆、能島の村上氏と来島の村上氏と双方と連携を保つうえで、最適な港でした。 小早川隆景の重臣として小早川警固衆(けいごしゅう/水軍を当時は警固衆とよびました)を率いた乃美宗勝(のみむねかつ)が、この忠海に賀儀(かぎ)城を築いて拠点とした理由も、この風景をみればただちに納得できます。 歴史学は、本を読むことも大切ですが、現地を歩かなければわからないこともたくさんあります。 このため、私は、常々学生に「歴史は、本のなかで起きているのではない、現場で起きているのだ」(どこかで聞いたようなセリフですが)と呼びかけ、現地調査の重要性と楽しさを説いています。 歴史学は、まさに旅の学問なのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.08.30 13:17:14
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