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カテゴリ:沼田・小早川家領の原風景
忠海が軍港としての機能を強くもつようになるのは、戦国時代、小早川隆景の重臣として、警固衆(水軍)を指揮した乃美宗勝が賀儀城を築いてからのことだと考えられます。
画面中央にみえるこんもりした丘が賀儀城跡になります。 そのすぐ右側(西側)にうつる赤茶色の屋根は、忠海西小学校です。 なお、この写真は、先日(29日)掲載した忠海の裏山からみた瀬戸内海の写真の右側部分に相当します。 もう一枚、別の角度から撮影した写真も紹介しましょう。 こちらは、戦前の忠海尋常小学校を写したものです。 校舎の後ろに海につきだすように城跡の丘がみえます。 賀儀城が築かれた時期は、はっきりしませんが、江戸時代の後半に編纂された『国郡志下調書出帳』によると、もともとこの場所には、床浦明神が鎮座していたそうです。 床浦神社は、いまも城跡や西小学校より、西側にありますが、これは戦国時代に「宗勝公、此処ヘ城郭ヲ築玉フノ時、今ノ社地ヘ遷サセ」たものだといいます。 また、床浦明神には、神社を造ったときの棟札が残り、そのなかには「永禄八年十二月」の年次を記す棟札があります。 この棟札が、築城にともなって移転したときのものだとすれば、城は永禄8年(1565)頃に築かれたことになります。 当時の政治状況からみても、永禄年間の築城とみてよいでしょう。 築城当時は、「三方海、西ノ方地続キ」といったありさまで(『国郡志下調書出帳』)、いま以上に海につきだした城だったようです。 おそらく、港と瀬戸内海航路を押さえる城として、機能していたのでしょう。 戦国時代、乃美宗勝率いる小早川警固衆は、この忠海から伊予方面、あるいは九州方面へと出撃していきました。 いま城の西側の砂浜は、海水浴場になっていますが、戦国時代は、もっと内陸まで海がはいりこみ、船溜りとして利用されていたのかもしれません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.09.02 18:44:00
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