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中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元

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2005.09.03
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忠海の勝運寺には、小早川警固衆の総司令官として活躍した乃美宗勝(のみむねかつ)の肖像画が残されています。

宗勝が亡くなってから66年後の万治元年(1658年)に描かれたものです。

宗勝は、16歳で初陣をはたして以来、河内・出雲・伊予・豊前の各地に転戦して活躍しますが、そのなかでも最大の功績といえば、厳島の合戦を勝利に導いたことでしょう。

勝利といっても、戦いで大活躍したわけではありません。
彼の力が発揮されたのは、外交の場でした。

そのころ元就は、強力な警固衆(水軍)を傘下におさめる陶晴賢(すえはるかた)とまともにぶつかっては勝てないと、強い危機感を抱いていました。
このため、瀬戸内海で大きな力を持っていた伊予の来島(くるしま)の村上通康(みちやす)に協力を求めます。



このとき小早川隆景の命令を受けて来島におもむいたのが乃美宗勝でした。
このことは、元就が隆景に送った書状のなかに、「乃兵(乃美兵部宗勝)来島へ御出」とはっきり記されています。

それにしても、なぜ宗勝が派遣されたのでしょうか。
実は、宗勝の姉は、当時、三島村上(さんとうむらかみ)と呼ばれ、瀬戸内海の中央部を押さえていた三つの村上氏のひとつ、因島の村上吉充のもとに嫁いでいました。
そして、彼女の娘は、能島の村上隆勝に嫁いでいました。

この二人から生まれた男の子こそ、こののち「日本最大の海賊」と呼ばれ、海の戦国大名として君臨する能島の村上武吉(たけよし)になります。
つまり、村上武吉のおばあさんは、宗勝のお姉さんだったのです。

厳島合戦当時、武吉は、23歳。
その武吉を後見していたのが、武吉の妻の父、来島の村上通康でした。
このため、来島村上の動きひとつが、勝敗を左右する鍵となっていたのです。

元就や隆景は、こうした海の領主たちの間で結ばれていた婚姻関係をたよりに、乃美宗勝を来島に派遣し、宗勝の交渉に賭けました。

その結果、ついに来島は、元就のために船を動かします。
おそらく能島の村上武吉も、来島と行動をともにしたとみてよいでしょう。

一時は、来島の動向がつかめず、毛利家重臣の児玉就方率いる河内(かわのうち)警固衆(広島湾の牛田などを基地とする毛利直属水軍)と小早川隆景の警固衆、あわせて120艘前後で、一か八かの勝負にでようとしたほどの元就でしたが、この来島来援によって、ついに陶軍を討ち果たし、合戦に勝利することができました。

その戦いは、のちに、元就自身が、来島の来援で「長男の隆元と私の頸がつながった」(原文は「来嶋扶持を以て隆元・我等頸をつきたる事候」)と語るほど、危機一髪の勝利でした。

厳島の合戦というと、元就の謀略の話(しかもどこまでが史実なのかよくわからない話)が話題になりますが、合戦の経過からみれば、来島の来援こそが、なにより大きな勝利の要因でしょう。

しかし、海賊衆との婚姻を軸に、来島の村上氏と粘り強く外交交渉を進めた乃美宗勝の活躍も忘れてはなりません。
その意味で、乃美宗勝こそが、陰の、そして最大の功労者だったといえましょう。
真の戦いは、戦いの前からすでにはじまっていたのです。

このあとも宗勝は、門司城の攻防戦や、大坂の木津河口戦など、各地で活躍しますが、朝鮮への出陣中に中風を病み、文禄元年(1592年)9月23日、筑前国の糟屋郡秋屋で世を去ります。
享年は66歳。
まさに戦いのなかを駆けぬけた一生でした。





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最終更新日  2005.09.03 11:56:54
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