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カテゴリ:歴史学全般
またも、とんでもない事件が起きました。
昨3日、島根県にある天台宗の古刹、鰐淵寺(がくえんじ)の収蔵庫から、鎌倉時代の絵画など、国の重要文化財4点を含む収蔵品13点が盗まれてしまったというのです。 そのなかに、後醍醐天皇直筆の御願文(ごがんもん)も含まれていたというのですから、たいへんなショックです。 「願文」(がんもん)とは、神仏に対して祈願の意をあらわすために作られた文書(もんじょ)のことで、全文自筆で書くことを原則とします。 ですから、この願文も、後醍醐天皇みずからが神様にお願い事をして書いた文書になります。 しかも、この願文は、後醍醐天皇が2度にわたる倒幕計画に失敗し、元弘2年(1332)3月、幕府によって隠岐島に流されてから、5ヵ月後に記されたという点でも注目されます。 そこには、彼が都から遠く離れた隠岐へ流されてもなお、倒幕にかける意志を強くもっていたことをはっきりと示す事柄が書かれていました。 まずは、その内容を、最初に原文、続いて、読み下しにして紹介しましょう(今朝の朝日新聞に写真が掲載されています)。 「 敬白 発願事 右、心中所願、速疾 令成就者、根本薬師 堂造営、急速終其功 可致顕密之興隆之 状、如件、 元弘二年八月十九日(花押) 」 〔読み下し〕 「敬白(けいびゃく) 発願(ほつがん)の事 右、心中の所願、速疾に成就せしめば、根本薬師堂造営、急ぎ速やか に其の功を終え、顕密の興隆を致すべきの状、如件」 後醍醐天皇は、ここで「心の中の願いが速やかに叶ったら、根本薬師堂の造営を急ぎおこないます」と誓っています。 この「心中の所願」が、倒幕を意味することは、まず間違いないでしょう。 彼は、なおも倒幕の野望を捨ててはいなかったのです。 その意志は、元号に、より明確に示されています。 ここで後醍醐は、「元弘」という元号を使用していますが、すでに願文が記された元弘2年8月19日は、「正慶」(しょうきょう)という元号にかわっていました。 元号は、後醍醐が隠岐に流された直後の4月28日、後醍醐にかわって即位した光厳(こうごん)天皇のもとで改元されていたのです。 ところが後醍醐は、新天皇が定めた「正慶」をあえて使用せず、自らの在位中に定めた「元弘」の元号を使い続けました。 そのことで後醍醐は、自分こそが正当な天皇であり、光厳天皇は認めない、という意志を強く示そうとしたのです。 このように、この願文には、倒幕へ執念を燃やす後醍醐の強い意志がこめられていました。 それほど貴重な文書なのです。 それが盗まれてしまったというのですから、怒りはおさまりません。 これほどの文書は、たとえ盗んでも、すぐに足が付きますから、そう簡単には売れないはずです。 どのような方法でもかまいません。 犯人は、激しい意志の持ち主だった後醍醐に呪い殺される前に、一刻も早く文書を返却しなさい !!!! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.09.04 13:22:51
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