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テーマ:石塔を旅する(10)
カテゴリ:三原市 石塔
龍泉寺にある「応安八年」(1375年)の宝篋印塔は、『三原市の石造物』によると、基礎の上部中央に、径10.1センチ、深さ7.1センチの円筒形の穴がうがたれています。 いま、基礎の上には別の基礎や笠が積まれているため、この穴を確認することはできませんでしたが、報告書も指摘するように、大きさから見て、遺骨を埋葬した奉籠孔のようです。 龍泉寺が沼田小早川の有力一族、小泉氏の氏寺であったことからすれば、その遺骨や、宝篋印塔の造立者は、小泉氏の可能性が高いといえそうです。 とくに年代的に近い人物が、氏平です。 氏平は、南北朝の内乱期に活躍した小泉氏の初代にあたる人物(沼田小早川家当主の貞平の弟)で、龍泉寺を氏寺として整備し、貞治4年(1365)8月22日には、知行地を息子の宗平に譲っています(小早川家文書)。 没年はわかりませんが、譲与の年代から推察すると、氏平の墓塔の可能性は高いといえましょう。 ただし、「小早川系図」によると、兄の貞平(沼田小早川当主)も、応安8(永和1)年(1375)2月19日に亡くなっています。 応安8年塔に陰刻された日付のわずか二ヶ月前のことです。 この点を重視するならば、氏平の兄の貞平の可能性もでてきます。 この場合は、貞平の墓塔を、弟の氏平が建てたものかもしれません。 いずれにしても、氏平に関わる塔であったとみなして、間違いはないでしょう。 これまでの調査データに基づけば、基礎の横幅が39.8センチ以上のものは、小早川の当主クラスの宝篋印塔となります。 応安8年塔は、基礎幅が47.3センチもありますから、その大きさだけをみれば、沼田小早川家の当主であった兄貞平の墓塔とみたほうが良さそうです。 そこで注目されるのが、沼田小早川家の氏寺であった米山寺に建つ「本明」の銘をもつ宝篋印塔です。 この塔は、前面に「小早川春平墓」と陰刻する石標が立つため、春平の塔といわれています。 しかし、基礎に陰刻される「本明」とは、「成就寺殿仏心本明大禅定門」、つまり小早川貞平の法名であり、これが当時のものだとすれば、この塔は、貞平の塔となります。 そこで、この本明塔と、さきほどの応安8年塔を比較してみましょう。 写真の上が応安8年塔、下が本明塔になります。 本明塔の基礎幅は、42.6センチですから、龍泉寺の応安8年塔の基礎(47.3センチ)より、ひとまわり小さなものになります。 しかし、各部の比率は、全体の高さと幅の比率が0.68、側面の縦横比率が0.50、側面にある上下の輪郭幅の比率が1.2、上の輪郭と左の輪郭の幅の比率が1.7、基礎幅と横の輪郭幅の比率が0.13となり、いずれも応安8年塔とほぼ同じか、たいへん近い比率を示します。 このことは、本明塔が、応安8年頃、つまり貞平の没年の頃に製作されたことを示しています。 しかも、基礎の上部を二段式につくる宝篋印塔は、沼田小早川領においては、当主の塔に多くみられる特徴です。 さらに本明塔は、すべての側面に格狭間を持ち、たいへん丁寧な作り方をしています。 こうした点からすれば、本明塔は、小早川貞平の供養塔であると考えて、ほぼ間違いはないでしょう。 そのうえで、あらためて、本明塔と、応安8年塔を比較してみましょう。 すると、比率は近似していても、その形は、少し異なることに気がつきます。 たとえば、格狭間の花頭形は、本明塔が輪郭に平行して左右に開くタイプであるのに対し、応安8年塔は、やや斜めに左右に開くタイプになります。 また、脚の高さも異なるようです。 そして、もっとも大きな違いは、本明塔の上部が二段式であるのに対し、応永8年塔は、上部が反花形式であるという点です。 このように、両者は、ほぼ同時期の製作とみられますが、石工は異なっていたようです。 それは、発注者の違いをあらわしていると考えられます。 こうした点から、応安8年塔は、兄貞平のために、氏平がみずからの氏寺として整備した龍泉寺に建てた宝篋印塔とみるのが、もっとも自然のように思われます。 実は、南北朝の内乱期において、小早川一族を率いて各地を転戦していたのは、弟の氏平でした。 鎌倉幕府が滅びたとき、沼田小早川家の貞平は、最後まで幕府の六波羅探題に従って行動したことから、建武政権のもとでは、本領の沼田荘を没収され、早くから足利尊氏に従った竹原の小早川景宗を頼りに、尊氏への接近と本領回復をはからなければなりませんでした(小早川家文書)。 そうしたなかで、兄の貞平にかわって各地を転戦し、奮闘したのが氏平だったのです。 その氏平の活躍もあって、沼田小早川家は、このあと幕府の信頼を勝ち得て力を盛り返してきます。 その意味で、氏平の存在は、沼田の小早川家のなかでは、たいへん大きな存在だったことでしょう。 それ故に、兄貞平の供養と、小早川家内部での存在を主張するために、大きな宝篋印塔を龍泉寺に建てたのではないでしょうか。 いずれにせよ、氏平に何らかの形で関わるこの塔の存在は、瀬戸内海の島々に大きく乗り出していった氏平が、海の流通をおさえ、本家にもまさる財力を蓄えていたことを物語っているように思われます。 その意味で、当時の小泉氏の勢力の大きさをうかがえる、貴重な基礎といってよいでしょう。 塔身や笠が欠損していることが悔やまれます。 〔お知らせ〕 音戸の瀬戸にある清盛塚について、『中世武士団をあるく』の姉妹ブログ『侍大将まこべえが行く』で紹介しています。 あわせてご参照ください。 『侍大将まこべえが行く』の文字の部分をクリックしていただければ、サイトに飛びます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.11.12 23:17:50
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