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テーマ:旅のあれこれ(10281)
カテゴリ:沼田・小早川家領の原風景
昨夜遅く、『中世武士団を歩く』へのアクセス件数が1万件を突破しました。 スタートから5ヶ月と2週間、国から支給される科学研究費の成果を、できるだけ多くのかたに、わかりやすく伝えようとはじめたブログですが、当初は、このような専門的なブログにどれだけの方が関心をもっていただけるのか、不安でした。 ところが予想以上に多くの方に愛され、ブログを通して新しい知人もできました。 このところ更新が遅れがちですが、これからも石塔を中心に、小早川氏に関する最新の成果を発表していきます。 また、地元の皆様からの情報もお待ちしています。 これからもよろしくお願いいたします。 今日は、1万件を記念して、このブログの主役である、小早川氏が築いた高山城を紹介しましょう。 標高は190メートルあり、東西に並行する二つの尾根を中心に郭が配置されています。 井戸も7か所確認されており、ところどころに小さな石垣も築かれています。 城跡からは、かつての沼田荘(ぬたのしょう)を一望できるほか、西から南にかけて、沼田川が瀬戸内海に向かって流れ、眼下を山陽道(西国街道)が走ります。 このように、高山城は、交通の要衝に築かれた山城でした。 その築城は、鎌倉時代の小早川茂平の時代と伝えられていますが、城の存在を確認できるのは、文和4年(1355)の貞平の時代からになります。 ただし、この頃の高山城は、軍事上の目的から臨時に築かれたもので、恒常的な施設をともなう城ではなかったようです。 その後、応仁の乱がはじまると、竹原の小早川弘景を主力とする西軍方の国人衆に包囲され、「高山城合戦」が繰り広げられます。 このとき、京都にいた小早川熈平は、応仁2年(1468)、城に残った家臣に、夜間の「城戸」の開門を禁止させ、昼も開閉には用心するよう申し付けています。 恒常的な城としての高山城が築かれるのは、この頃からだと考えられます。 画面の手前に、本郷小学校が見えますが、このあたりは、江戸時代は「土居」と呼ばれていました。 土居という地名は、館跡を示すことが多く、いまでも小学校から奥の谷一帯を土肥谷とよんでいます。 大正末年頃の地籍図を見ると、「土居」の一帯から、方形の敷地跡や堀跡とみられる細長い地割が読み取れます。 地籍図から判断すると、北から西を堀と土塁で区画し、南に堀を設け、東は丘陵で防御された空間だったようです。 地籍図から割り出した敷地の大きさは、西側の堀跡も含めて東西約90メートル、北の横堀跡から南の敷地(水田手前)までが南北約120メートルほどで、内部の敷地は、東西63メートル、南北96メートルほどになります。 小早川氏の御館の所在地は、いまだに特定されていませんが、これまでの調査のデータに基づけば、この場所が小早川氏の御館跡だと考えられます。 小早川氏は、小学校の敷地の横の道を通って、城山に登っていたのでしょう。 いまその途中に愛宕社がありますが、ここからは眼下に「土居」をのぞめます。 そこは「土居」の西北に位置することから、もともとは御館を守護する神社として鎮座していたのでしょう。 さらに想像をめぐらすならば、いま小学校の東に鎮座する具住(ぐじゅう)神社は、もともとは土肥谷にあったものが、現在の土地(神原谷)に遷座したものといわれています(明治35年由緒調査書)。 具住神社は、小早川家の崇敬を集めたと伝えられていますから、もともとは、この愛宕社の場所にあり、御館を守護していたのかもしれません。 なお、小早川氏の御館については、「石塔と景観の語る中世ー安芸国小早川領を行く3」(『専修史学』34号)のなかで検討しています。 詳細は、こちらをご参照ください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.11.19 18:18:15
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