ショートストーリー その4
「薄紅の花が咲く頃」 しばらく、もうふたりで桜の花を見上げていない。 「来年も咲くだろう」とあなたは笑うかもしれない。けれど。 桜の花だけは、私にとって、いやふたりにとって唯一無二の花なのだ。 ずっと前からよく知っているつもりのあなたの、今まで知らなかった核の部分に初めて触れたとき。その夜の空に揺れていたのが、淡いピンクの桜の花だったから。 あの春はきっと例年よりも暖かく、開花も早かった。3月の晦日だというのにすでに目黒川沿いの桜は夜風に乗って、ほろ酔い加減な私たちに優しく降ってきた。 春の花として、子供の頃から馴染んできているはずなのに、“こんなにも、こわいくらい美しい花だとは知らなかった”。 今思えば、あの頃 不安と期待でいっぱいだった。転職による環境の変化は想像よりも自身にダメージを与えていたに違いない。もしかしたら。ラブアフェアの類だったのかもしれない。事実、その夜以降、理由もなく落ち込んでしまった私がいた。 ふたりで過ごした翌朝、恥ずかしくてなんだかうまく話せない自分がいた。そそくさと「用事」を告げて家へ帰ったその夜、あなたからの電話が鳴った。 まるでなにもなかったかのような会話に寂しいながらもほっとしたのだった。 それからの1週間は、仕事をしていても、一人でいても、気がつくとあなたのことを考えてしまっていた。好きになっちゃったのかな?って声に出してつぶやいたら涙がでた。 1週間後のあなたの電話は、ずっと待ちわびていたようで、突然のことのようだった。 意外にもあなたの口から出たのは「どうして電話をしてこないの?」という責めだった。驚きと嬉しさで胸が高鳴り、1秒でもはやく、あなたに触れたいと叫びたいくらいの衝動を押さえきれず、気づいたらあなたの部屋へ向かう深夜のタクシーのなかだった。 それから、何度もつまらない諍いをしながらも、今もそばにいる。誰よりもイトオシクテ,大切な人。殴られたことはないけれど、私が殴ったことはある。 思い通りにいかなくてばたばたと暴れる私を ぎゅっと腕に閉じ込めてしまう。動けなくなった私が泣くしかなくなると、泣き止むまで手をゆるめず、おちついてくると頭をなでる。 たぶん、これからはこういう相手には2度と出会えないだろう、と喧嘩のあと反省することしきり。 開花宣言も出る頃、今週末はまだ浅咲きの桜を見にいきましょう。 そう、伝えるために、携帯のメールボタンを押した。