|
カテゴリ:あの戦争を考える
二夜連続ドラマ「東京大空襲」を観ました。 主演の藤原竜也さん、堀北真希さんの起用は 若い人たちへ悲しみを伝えるためには良かったかも知れません。 でも「ドラマ作品」としては些かの疑問が。 演出や脚本がイマイチだったのか。 二夜に分けて放送した意図が解りませんでした。 昨夏のフジテレビドラマ「はだしのゲン」は 二夜では足らないくらいの見応えだったのに。 その中でも、空襲が始まり人びとが逃げ惑う 言問橋での地獄絵図は壮絶でした。 それから大滝秀治さんのラストシーン間近の演技。 表情、語りかけ、切なくてボロボロ泣きました。 82歳、戦争体験者である大滝さんには否が応でも納得させられます。 知らなければならないし、忘れてはならない。 かつての日本がしたこと、されたこと。 そして非戦闘員の犠牲者はもちろん、 洋上で四散した若者、 遠く離れた場所で祖国を想いながら病気や飢餓で倒れた人たち 玉砕の島々 何もかもが悲劇。 その時代を生きたがために、 うねりに巻き込まれて亡くなっていった せっかくこの世に生まれてきたのに、人生を奪われた 考えれば考えるほど恐ろしく悲しく不条理です。 以前もご紹介しましたが、手元にある戦争体験記「戦争」から 東京大空襲に関する体験を抜粋します。 20年前に刊行されたものです。 三月九日の夜、また空襲かとラジオに聴き入っているうち、家にかぶさってくるような飛行機の爆音に夫と表に出て思わず立ちすくみました。まわりは火の海で明るく、空には飛行機が大きな羽を広げ、隅田公園の高射砲隊が撃ち続けています。「おい、早く逃げる支度を」。夫の声に我にかえりましたが、何も持って逃げる物はありません。一升びんに水、配給の大豆かすの残りを袋に入れ、夫は子供の、私はしゅうとめの手を取って家を出ました。 途中で会った兵隊さんは「隅田公園はダメだから別の所へ」といいながら走り去ります。白鬚橋のそばのガス会社の裏へ逃げました。雨のような焼夷弾、うずをまいてうなってくる炎に照らし出された町は地獄というのでしょうか。夜明けの浅草は目も開けられぬほどの煙の中で、皆ぼうぜんと顔を見合わせるばかりでした。 浅草の兄たちとは会いましたが、被害が酷かった千束町の姉一家七人は死んでいるのではないかと遺体を捜しました。黒こげ、半焼けの遺体、水、水といいながら息絶える人、消防車の上で死んでいる消防士。学校のプールも遺体の山、火に追われたのでしょうか、隅田川も遺体でいっぱいでした。隅田公園は土まんじゅうが並び墓場となっています。大きな穴を掘り石油をかけて遺体を焼く人。 「あとのことを考えても仕方がないから、お前は熱海に行くように」。夫にいわれてハッとしました。二年生の長女を疎開させていたのです。死ぬなら子供と一緒・・・と二日も駅に並んで切符を手に入れ、熱海に行きましたが、そこで待っていたのは東京よりひどい食糧難の苦しみでした。(当時30代女性) 戦争が終わる一ヶ月前の暑い日でした。わたしの家から百メートルぐらい離れた電車通りに、人だかりがしていました。急いで行ってみると男の子が倒れていました。 「どこから来たの?お父さんやお母さんはいないの?」 まわりの人が話しかけても声を出す力もなく、目をつむったままうなずいたり首を振ったりするだけでした。 男の子は十三歳。三月の東京大空襲で家族みんなが死に、ひとりぼっち。田舎の親せきへ行こうと静岡県袋井の町まできたのです。何日も食べず体はやせ細り、もう歩く力も目をあける力もなくなっていました。何かを食べさせてあげなくてはと、何人かのおばさんは家へ走りました。かぼちゃの煮物やいった大豆を持ってきて、その子の手にのせてやりました。その子は閉じていた目をうすくあけ、「ありがとう」とでもいうようにまわりの人を見まわしました。そして手の上の食べ物を口に持っていきましたが、口に入らずぽろりと地面に落ちてしまいました。 二時間後、その子はもう動かなくなってしまいました。知らない町で、固い道路の上で、おなかをすかせたまま十三歳で死んだのでした。みんな泣いて手を合わせました。町内のおじさんが、どこからかむしろを探してきてかけてやりました。焼きつけるような夏の太陽がじりじりと、むしろの上を照りつけていました。(当時10代女性)
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[あの戦争を考える] カテゴリの最新記事
|