カテゴリ:母との確執
自分では見ようと思わなければ目に入らない箇所だが、
私には右ひじの外側に、500円玉より大きな痣がある。 今はもう薄くなっていて、自分で確認してみても、まったく気にならない範囲ではあるが。 この痣は生まれつきなのか、それとも小学生だったあの日にできたものなのか・・・。 小学校2年の終わり頃だったか3年生になる前の春休みだったか、私は自分の部屋で勉強をしていた。 母が入ってきて(何の話だったかは覚えていないが)私はその際、母の言葉に逆らった(らしい)。 母は怒り、勉強机と椅子の間に私の右ひじを挟み、力いっぱい椅子を押した。 とても痛くて大泣きしたのは覚えているが、その時に痣ができたのか、 たまたま生まれつきあった痣を直撃されたのかは解らない。 とにかくその時に、私は右ひじの痣を自分自身では初めて認識した。 その年の夏休み、いつものように私と妹は母の里帰りに連れられ、奈良県の母の実家に行った。 その際、母の8歳下の弟(長男)が目ざとく私の痣を見つけ、こう言った。 「順子、なんや、これ? こんなんがあったら嫁に行けへんで」。 まだ8歳の子供だった。だからその話を真に受けた。 私はお嫁さんになれないんだ・・・悲しかった。 そんな時でも母は、私をかばってはくれない。 それどころか「あら、こんなところに? 気が付かなかったわ」のひと言。 真夏でも長袖を着せた方がいいと、母のきょうだいたちは口々に言ったから、 当時は、女の子の体に痣があるのは、ひどくネガティブなことだと思われていたのだろう。 母は毎年の夏の里帰りをとても楽しみにしていた。 姑と離れ、慣れ親しんだ家族と過ごす1週間から10日の日々は、十分に休息ができたのだろう。 私も、いとこたちと会って遊んだり、奈良や近郊の親戚の家を廻るのは楽しみではあった。 田舎の景色は珍しく、知らないことをたくさん知れるのも、嬉しかった。 でも、やはり母や、母方の祖母、そしてこの母の弟だけは馴染めなかった。 母と性格がそっくりだったからだ。 母方のきょうだいたちの何人が現在も存命なのか、私は知らない。 ただ私には優しかった母のすぐ上の伯母さんは、アルツハイマーを患い、 施設に入った後、彼岸の向こうに渡ったと、何年か後に知らされた。 一緒に旅行したこともある伯母なのに、亡くなったことを母は知らせてくれなかった・・・。 (次の次あたりに続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年03月22日 14時36分07秒
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