カテゴリ:僕の教育論
その1はこちら
その2はこちら <続き> 「いじめられている側は何も悪くないんだから、気にすることはない。 ただ胸を張って生きていればいい!」 という方々には、 そうすればもういじめられて悲しい想いをしなくてすむワケではないとわかって欲しい。 いじめっ子が悪いんだから、行動や発想を是正するのはいじめっ子だけでいいでは解決していないとわかって欲しい。 そもそも、どうしてこの世からいじめをなくさなければならないのか? いじめが悪だからとか、そういうことではないですよね? いじめをなくさなければならないのは、 『いじめれることによって傷つく人がいてはならないから』 ですよね。 解決したいのは、『つらい思いをしてしまうこと』ですよね。 だったら、 同じような環境でもいじめられる人といじめられない人がいて、 いじめられる側にその原因の一端でもあるのであれば、 そこを是正することがいじめ問題解決のひとつの道だとも言えるはず、だと思うんです。 「悪いから変える」のではなく「原因になるから変える」のです。 たとえば、さっきの僕のケース。 僕はただ目立ちたいだけですから、 人を傷つけるつもりも不快にさせるつもりもありません。 でも、結果として不快に思う人が出て、 その結果僕自身がつらい思いをしました。 当然僕は今後、そんなつらい思いをしたくはないんです。 であれば、僕はコミュニケーションそのものについて考え、 行動を見直していく必要があるわけです。 だって、 同じようにしていたらまた同じことが起こるかも知れないんだから。 コーチングの世界で「アサーティブ」という視点があります。 もともとは”自己主張”という意味ですが、 単純に自己主張をするのではなく、 「相手を否定したり傷つけたりするのではなく、 関係を前進させるための自己観点の主張」 といった意味で使われています。 小学生の僕に足りなかったのはまさにこの視点。 自分が主張することが間違っているのではなく、 それをどう捉え・受け入れられるかということに意識を払えなかったことが失点だったわけです。 少なくとも僕は、自分の主張によって人を不快させたいのではなく、 できれば認めてもらった上で仲良くしたかったんですもの。 となれば、行動を変えるべき点はそこ。主張をやめるのではなく、 「極力とげのない・角の立たない形でのコミュニケーションを意識する」こと。これができていれば、 少なくとも僕がいじめに合うことはなかった気がします。 もちろん、そんな論点が通用しないいじめも存在するでしょう。 ただただ理不尽ないじめも多々起こっていることでしょう。 あるいは、原因は明確なものの、それが自分に起因しないというケースも多いと思います。 東野圭吾さんの小説『手紙』にあるような、家族に犯罪者がいるといったケースもここにあたると思います。 ですから、 すべてについて前述したような論点が当てはまるとは言いませんが、 「いじめ被害者は何も悪くないんだから、気にしなくていいんだ」 って言う考え方に僕は疑問符がつきます。 悪くなくたって、自分に原因があるケースも多いんだから、 そこは見つめてみるべき・見直してみるべき・努力をしてみるべきだと思うんです。 悪いって言われたら受け入れがたくなる気持ちはわかるけど、 単純に『原因』であれば客観的に受け入れられると思うんですが、どうでしょう? だって、少なくとも今とこれからの近い未来には、 世の中にいじめは確実に存在するんですもの。 (僕も含めた)元いじめられっ子が もう一度いじめの被害者になる可能性は大いにあるんですもの。 そして、 それを我々はいじめられっ子に伝えてあげるべきだと思います。 「いいよいいよ、君一切悪くないんだから何も気にしないでいいよ。 僕が守ってあげるから、そのまま何も変えなくていいよ」 後ろ盾は確かに必要だし、自分がそれになってあげることは大切です。 「僕がついているから大丈夫だよ」 と伝えてあげる・知ってもらうことは絶対に必要なんですが、 それだけで終わってしまったら自分で立っていかれなくなってしまう。 ”僕”がついていてあげられるうちは救われるけど、 いなくなったら途端に逆もどり、ではダメなんです。 そのためには、必要である改善点はしっかりと伝えてあげないといけない。 それこそが真の愛情だと思うんです。 「お前はこういうところがあるから、 それは直したほうがいいのかも知れないぞ」って。 そりゃぁ、言われたときはちょっと痛いかも知れないけど、 相手のためにしっかりと伝えてあげなければ本人だけでは気づけないんです。 もちろん、タイミングは重要ですね。 本人がひどく傷ついているまさにそのときに、 さらに塩を塗るようなことになってしまっては 『守る』という言葉すら届かなくなってしまいますから。 でもですね、 決してそれは加害者の非を軽減するモノではなく、 全くもって切り離して考えなければならないところだと思います。 加害者は、被害者の気持ちを考えるべきだし、 相応の罰を受ける、償いをするべきです。 ちょっと危険な思想かも知れませんが、 加害者になりたくないと思わせるような、 過剰な制裁すらあっても構わないと思っています。 それくらい、加害者は悪いんです。 一分の言い訳も成り立たないほどに。 近い将来、この世からいじめがなくなっていることを強く願います。 そのために、この世が愛情あふれる豊かな世界になっていることを強く願います。 そして、それまでの間に発生してしまう悲しいいじめの被害者が、 一人でも少なくなることを強く願います。 いじめの被害に合ったすべての人が、 もう一度同じ目に合わずに笑顔で生きていけることを強く願います。 そして僕は、僕の願う世の中になってくれるために、 小さいかもしれないけど自分の力を使っていこうと思います。 ここまでお付き合いいただいた方、 最後まで読んでくださってありがとうございました。 以上が現時点でのいじめ問題に対する僕のスタンス・考え方です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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