聡明なぼんやり
「老古錐は、古びて、きっさきの鋭利さをなくした丸く役に立たない錐のことだ。「利」は、刃物の鋭さを意味することになる。鋭さも、ほどほどにせよ、という教えを込めた「利休」である。」(『利休にたずねよ』、p.276、山本兼一著)これは利休の名前の由来についての説明ヵ所。本を読んでいて、こういう部分に当たるとビビッとくる。(そうそう、これこれ)という感じだ。もちろん、魚釣りに関しての感慨。ものすごく釣果ばかりを気にして、そのプロセスを忘れているといった状況。細い糸に小さいハリ、さらに川から採取したばかりの川虫。頭の中は魚のことでいっぱい。他の釣り人を押しのけて、一番乗り。他人や魚のことをかえりみることは一切なし。こういうときにちょっとだけ利を休む。毛バリのポイントが少しばかり磨滅していても気にしない。こういうのをもしかしたら、コンプリートアングラーというのかもしれない。鋭くなろうと思えば、いくらでもなれる。けれどそれはしない。魚や他人に思いやりを示し、もちろん自分にもやさしくなる。魚をだまして、金属のフックを口にかけて、引きずりまわすという残酷な所業であるけれど、それでもやはり人にも自然にもやさしくなりたいと思う。矛盾しているのだけれど、本人の中では合意している、というような。魚釣りというものは、竿を持っていないときもこのような空想にひたれるのでおもしろい。おしまい※「聡明さをぼんやりで包んだような笑顔」・・・浅田次郎の小説の中にこのような言葉があった気がする。※聡明とぼんやりが自由に明滅できれば、かなりの人格者っぽくなれるか?