引き続きトゥートタイ通り バンコクヤイ運河にトンブリー王朝を感じる旅[6]
カオマンガイで遅い朝食を取った後、再びトゥートタイ通りを東へ歩こうと店を出ると、線路を渡るソイを発見。ちょっと覗いてみるか。カオマンガイ屋の奥隣には、中国菓子の工場でしょうか?店先に、饅頭だかドラ焼きだかが並んでます。中で作ってるようですね。さらに進むと踏切が。さすが古い町だけあって、歴史を感じる木造家屋が多く目に付きますねー。のどかで住み易そうな雰囲気です。戻って、トゥートタイ通りを歩きます。ここでもやっぱり味のある木造家屋がところどころに。そしてもうちょっと進み、細い運河を渡る橋のたもとに差しかかると、あっ! 鳥かごだ!またもや登場しました。ムスリムが多い地域で必ず見かける鳥かご。トンブリー王朝の15年間、この一帯は潮州系華僑が多く住み、商業の一大中心地として賑わいました。勿論その頃は陸地に立派な道はなく、バンコク・ヤイ運河沿いの水上マーケットとしてですが。その後1782年、ラマ1世が現チャックリー王朝を開き、首都がチャオプラヤー川対岸のラッタナコーシン島に移ります。商業の中心地も新しく開かれたサンペンへ移動。それに伴い一部の華僑はこの地から、サンペンへと移住。タラート・プルーの地は、衰退しかけてしまいました。しかしです。出て行った華僑と入れ替わりに、この地へ移住して来た人たちがいました。それがムスリムの人たちです。南タイのパタニ王国が、ラマ1世の二度にわたる遠征で征服された時期(1795,96年)にほぼ重なるので、パタニ王国からの難民なのかもしれません。リケー発祥の地、マハーカーン要塞コミュニティしかり、この時期に多くのムスリムが、パタニ王国の地からバンコクへと流入したのかもしれませんね。ムスリムがこの地にやって来たことで、タラート・プルーは再び商業の中心地として繁栄することになります。その辺の詳細は、また追って書くことに(笑)というワケで、この地には今でも華僑のほかにムスリムも多く住んでいるようです。が、その大部分はここより南東の奥まったところにいる印象を受けましたね。でも一部はこうして、トゥートタイ通り沿道にもいるということなんでしょう。さて、もう少し歩くと通りの反対側にお寺が見えてきました。ワット・インターラーム・ウォーラウィハーンです。門の装飾の中央に注目してください。ここにも馬に跨ったタークシン王の姿が。なぜかというと、この寺にはタークシン王の亡骸が安置されているからなのです!時刻は10:55。<交通費>歩いただけなので:0バーツここまでの合計: 20バーツつづく・・・