韓国という「ふるさと」
ふるさとは遠きにありて思ふものそして悲しくうたふものよしやうらぶれて異土の乞食となるとても帰るところにあるまじやひとり都のゆふぐれにふるさとおもひ涙ぐむそのこころもて遠きみやこにかへらばや遠きみやこにかへらばや出典:室生犀星「小景異情ーその二」なぜかこの詩が頭に浮かんだ。いやおうなしに望郷の念にかられてしまう。自分自身の昔の記憶を思い返すような。言い過ぎかもしれないが、母親のお腹の中にいるような。 「僕の彼女を紹介します」もはや「韓流」と呼ばれる一大ブームは終焉を迎えようとしている。私は生来の天邪鬼(アマノジャク:ひねくれもの)なので、世間のブームに乗ることをひどく嫌ってしまう。だから、韓流ブームが下火になった今、この映画に手を出した。なぜ韓国のドラマや映画がうけるのか。これは、私にとって大きな謎だった。韓国のものをあえて遠ざけていた私には、この謎を解く機会は存在しなかった。しかし、この映画を見てその謎を解く鍵が見つかったように思う。それは、冒頭でも挙げたような「望郷の念」である。この思いは、旅愁などとも言い換えることができるが、簡単に言ってしまえば「なんか懐かしい」という気持ちである。誤解しないでほしい。韓国の映画を見て「懐かしい」という感想を述べることは、「韓国は日本より少し文化の成熟が遅れている」ということを意味していない。「私たち日本が捨ててきたふるさと」という意味も込められてはいない。でも「懐かしい」という言葉を用いざるを得ない。これ以外に、的を射た表現が私には見つからない。では、なぜこのような感想を持つのだろう。思い浮かぶ要因は、「表現がストレートである」ことである。話のストーリーは単純明快である。それをアームレスリング世界チャンピォンのような腕力で、2時間ほどのドラマとして描ききって見せる。下手な小細工はせず、正面から描く。まさにガチンコ勝負といったところだ。それが韓国の文化の特徴なのかもしれないが、雰囲気を大事にして、物事の核となる部分を隠そうと精進する日本の文化とは、一味違う。ここに、日本の人は魅力を感じているのではないか。一方、日本と韓国の文化には共通点も多い。二国とも同じく文化の根本に「中国」「仏教」を持っている。この映画の中で出てくる「四十九日」という概念も、二国の人々が共通認識として持っているものであり、解説がなくても、理解することができる。この点は大きなアドバンテージとなる。「パッション」というキリストの受難を描いた映画がいつか公開されていたような気がするが、こんなの日本人が見て、その本質を理解することは到底できない気がする。「キリストの生涯」という1つのドラマとしてなら鑑賞可能だが、自分自身の宗教体験と照らし合わせて、「キリストの受難」を「自分自身の存在意義」と重ねて、映画が表現する「意味」を理解することは、日本人には不可能だ。その点、価値観が似ている(韓国には儒教という大きな精神的支柱があるが)韓国に、日本の人が親近感を持つのは不思議ではない。価値観が似ていてすんなり理解できるいっぽう、日本とは少し違った表現方法で、よりストレートに物語を構成している。これが、韓国のものが日本人に受けていた要因なのだろう。この視点から、今回の映画の感想を述べるならば、「気持ちのいいラブストーリー」だったといえる。「僕は、死んだら風になりたい」なんてセリフは、日本映画ではあまりお目(耳?)にかかれないし、このセリフを聞いたとたん、「あぁ、この男の人は死ぬんだ」とすぐ分かってしまう。(案の定、死んでしまう)そんな先の見える展開にもかかわらず、恋人の死というありきたりのテーマにもかかわらず、感動させてしまう豪腕。2時間を感じさせないテンポと構成。どの点においてもそつなく仕上がっている。多少、美的感覚が違うのか、登場人物の女性や、男性がそんなにかっこよく感じられないのはご愛嬌。それはそれで、ストーリーをより身近に感じられるのでよしとしましょう。これは日本の人々(おばさん中心)がはまってしまうのも仕方がないような気がする。だって、単純に「見ごたえがある」んだもん。きのう見た「NANA」なんかよりは、はるかにね。