驢馬の道
生き方を、いつも馬鹿にされるようなことばかりなので、こちらもひどく相手を馬鹿にしている。向き不向きで語る事が許される事と、向き不向きで語る事が許されない事が有る。向き不向きで語ることが許されない事に、向き不向きが極端な方向をさしているのだろう。それは運の問題だ。 人生は全て、シュレーディンガーの猫のようなものだから、一定の条件が満たされた世界で一定の条件が満たされなかった場合の世界など無根拠だし、断言できる事が無い。チェックメイトなど無い。相手がチェス盤をひっくり返す可能性だって、自分が相手をチェックメイトしている夢を見ている可能性だってある。それなのに、チェックメイトの状態であれば絶対に勝てるという絶対性を主張する人間が気に入らない。世界はそれで動いている。健全という絶対性が存在し、健全を保つことに向いていれば、何の労力もいらないのだろうが、向いていなければ、生きる事に何の希望もみいだせない。そこに絶対者が入れば、よりいっそう混乱する事は分かりきっている。 シュレーディンガーの猫の様子を不可侵な箱の外から観測するようなことだが、もし分かりたい事が有るとしたら、絶対そうだと分かる事があるかということだし、それならば死後の事は分かることができるかということだ。それなくして幸せを探求が出来ない。自殺を戒める概念があるが、自殺と他殺と自然死とを、どう分類しているのか?分類という概念のイデアは何処にあるのか?この世に分別できるものなんてあるのか?名前は忘れたが、自らの意思で食を断ったギリシャ哲学者や、自ら息を止めて死んだというギリシャ哲学者や、半分くらいは自分の意思であったかもしれないソクラテスのような死や、即身仏は自殺に入るのか?食料が無い餓死はどの分類か?無気力で人生に失敗するのはどの分類か?死んでからも生きているみたいな意識活動は続くのか?人生はいつまで続くのか? 探求があるとしたら、それしかない。美術史とか美学とか芸術学の探求や絵を描く事の無意味さとどうでもよさには閉口なのです。でも自分は選ばれる事においてくじ運が悪かったので、そちらの方角は運的に閉め出されたのだ。同時に無気力とも生きて行かねばならないし、精神身体内の不穏分子とも共存していかねばならない。最早、死にも確信が持てない。