言いたかったこと
大学生の頃の自分に、30代の誰かが、「若いうち、こうしとけよ」とか「この道を進むと危ないからやめろ」とかって助言したとしても、私は聞かなかっただろう。私の人生は私の人生であって、私はあなたのようにはならない、と思うだけだっただろう。 今の大学生たちに、30代になった自分が、そういう助言をしたりしようとするときに、このかつての自分を完全に思い出す。30代の教員が今、若者に話す言葉は、そのくらいの力しかないのだと。 ただまあ、「大学の先生」としてなら少なくともそうなだけ。面白いもので、「大学の先生」としてではなく「占い師」として助言していたら、全く違うだろうから。 なんといっても、若いうちは、社会に出る前は、いまやっている勉強が必ず何かに役に立つだろうと思って勉強し続ける。自分がそのような時期を経て思ったのは「決してそんなことはない」ということだ。 もちろん、例えば介護士の資格とか、会計士の資格とか、何か具体的な仕事に結びついている勉強は必ず役に立つ。 でも大学の多くの勉強や受験勉強なんかはさすがに役に立たない。大学で言えば、経済とか科学・技術に関することならいいが、実学じゃない教養とか結構含まれている。資格とかそういうものは、大学というより専門学校とかカルチャーセンターみたいなところ担当みたいなのもあると思う。 そういうのに比べたら、大学は役に立たない学問が「比較的多い」。高校教科の発展物や、文学部とかがそれにあたる。 数学や物理学の高度な数式を教えたり、昔の流行りの作家の情報を頭に詰め込み細かい外国語の違いを吟味するよりは、好きなゲームとかアニメとか漫画とかスポーツといった切り口でいいので、その業界の経済的動向を自分なりに未熟でもいいから考えて、どんな特徴があるか、どうなるだろうかと話し合ったりするような授業科目のほうがずっと将来のために良いと思うが。 本来、長い歴史が育んだ人間の教養は大事なものなので、アメリカのように合理的なら教養・哲学の大事さを逆に主張できそうだが、日本の大学のブラック企業倫理的か外国崇拝な教養主義のあり方では、全くそれを言う気がしない。 「学校の勉強は将来役に立たない」という助言は色々なところで聞いていたが、自分は全く信用しなかった。(ある意味では、アメリカのような大学のあり方が大学だと思い込んでいたのだ。) そしてかなり長くそれを勉強した。その結果、はじめてその話が本当であるとわかったのだ。だから、私も自分より若い人にそれを言ってみるけど、若い人は確かに昔の自分と同じでそれを信じることはない。 教員になったら、勉強科目は役にたつだろう。ただ、人間に必要ないものに自分で需要を作って、自分で売る、その自作自演感がハンパナイ。 ある意味での20代の誤算は、年をとればとるほど、社会貢献とか、他者の役に立ちたいとか、そういう気持ちが芽生えてくるということだ。 だから、自分の勉強したことを話すということは比較的楽しそうに見える。だけど、だけれど、それは社会にとって何も役に立たない。そう考えると、年をとってから、全くやりがいを感じなくなる。 ただ、多くの学生と接していて、やはり思う。機械のような人、人間のような人とがいる。今の時代、人間はレアだ。種からそうなのか、教育がそうさせるのか。 それでもって、人間的な人は20人に1,2人なので、このおかしな教育は別に構わないのか。人間的な人は、日本の教育とそのカルト宗教にどっぷりの家族とかに本当に苦しむことになると思うのだけれど。 人間は人間的テーマに集い、機械は機械的テーマに集う。ある意味では、受験戦争、脱ゆとり教育、ブラック企業、というのも、塾や大学、企業や国の特定層の利潤とかの他に、そういう需要があるのかもしれない。そんな風に思った。人間的働き方が向いている人もいれば、機械的働き方が向いている人もいる。機械的な人に、人間的テーマを話しても、まず理解されることはない。 機械の心といっても、機械であるAIがこれからどんどん人間に近づいていくのかもしれない。質量保存の法則みたいに、それによって人間のうちに機械の心の割合が増えていってるのだろうか。この世界で、知能というものは有限なのかもしれないな。 ともかく、そのように、どんどん世界は両極化している。豊かさの基準はひとそれぞれなので、本当に思うのは、とにかく住み分けが大事だ。機械の心の世界には、関わらないようにしよう、本当に、もう関わらないようにしよう。