ЖПОП ΞΦΙΛΕ
かつてはずっと待っていたのではないか?歳を重ねるごとに深刻に、じっとしていれなくなってきた。開けた空間であろうと、それは同じで、精神的な閉所恐怖症なら、小学校に入る前からそうであったではないか。 モノになるのが一番難しくて、基本的に、機械的になるという才能が最も乏しく、また、それがすべてを形成した。事実、というか最悪、時間を数える事でも時間は経過する。ただいつも待っている。時計を見て、次に時計を見たときにたくさん時間が過ぎていたら、嬉しいというだけの生活を。なぜならばずっと待っていられないのだ。世界時間に対して個人的な精神時間は、ハイスピードに慣れてしまって、遅くすることができない。時間がゆっくり過ぎる程に、体を動かせないことを意識して、体を意識するほどに時間がゆっくり過ぎる。体を動かせない事を意識すると、不快なモノが生産されるのだ。 何もしないで待つという行為は一体何なのだろう?常に限界状況であって、1秒1秒がその限界状況を乗り越えてくる。体は動かせるだろうか?何もしないで待つのだからそんなことは叶わない。どんな楽しみもない。体をもしも持ったまま何もしないで待つのならば、それは流転する体が、流転できないがゆえに苦痛だけが増えてくる。世の中は待つ事ができるひとのなんと多いことか。ヘラクレイトスの言ったことなどを実感できるひとは少ないだろう。皆、どこでも待つことができるのだ。映像が流されて、それが終わるのを待ったり、だれかがどこかへ着くのを待ったり、細胞が入れかわっていくのを待ったり。僕の体はなぜか無意味に流転している。終局点を恐れているのか、よくわからない。別に自己実現をする気もないのに。 肉体の牢獄という閉所における恐怖は、果たして死んでからも、意識は残るのか?輪廻とか、魂の救済とかいう話は、それに比べればまだどちらでもいいことだ。人の意識が残るとしたら、人は死んだら、永遠にこうやって考え事をしなければならないのかということこそが、恐怖だ。本能だけで生きた動物ならば、事実、肉体がなくなればそもそも考える必要などないのかもしれない。ただ、本能よりも理性という無意味さに生きたならば、理性はヒトのどの部分に依存しているのか、それが問題だ。 故に意識こそこの世で最も残酷だ。原罪が人間だけのものだというならば、地球や植物だって生きているなどという馬鹿げた論理は道徳教育の範囲だけにして即刻撤去すべきなのだ。特に、金稼ぎのための売名的名目を。 誰も望んでいない社会を、世代間倫理を、それを差別する気がなく、また、人工物と自然物の間に差別を持っていないと言えば嘘で、平静を愛するがゆえに、自然物には軽蔑を持つ。自然は最も多く人を殺したもので、しかしながら、ヒトは増えすぎた。ヒトが生まれる限り、ヒトは殺されるだろう。同族も、生物的バルバロイも、自然もまた命を狙っているのだ。ただ僕は医学に無知であるから、肉体を滅ぼさないでおく薬や技術などができるかどうかは分からない。ただ、いままでの経験論だけで考えるならば、生とは死の予感であり、同時にもしも、無神論と唯物論を信じるならば、死は救済で、生の終わりの予感が一番の悪だ。自己満足のための孤独の主張とか、妄信的信仰のための愛とか、そういうものは、どうでもよくて、人の存在を感じるとしたらそれは自分という存在は確かに感じているからだ。現在が存在するならば同時に過去も未来も存在していようがいまいがどうでもいいから。