甘き死よ来たれ
Komm,susser todを、テレビで聴くことになるとは思わなかった。最近エヴァのパチンコのCMがやたらやってるが、劇場版エヴァンゲリオンという90年代最高の人工鬱と人工狂気であり僕の「個人的なのに集合的無意識」である。それは、いつまでたっても現存在の自分とは止揚はされない。どれだけ力強いことだろう。あるいは、それにどれ程影響されてきたのだろう。狂わされてきたのだろうか、とはいえ、もしも狂わなかった人生などあるのかと問われれば、マクロとミクロを繰り返す因果律を考えるそんなもの想像しようもないし、存在していない。 霊性に、神性、それを持った感情、それらのいわば「語りえぬもの」「言葉にできないもの」それは、「言葉にすれば、その性質が失われる」ものではなく、どちらかといえば「言葉という他者と自分のあいだに、越えられない壁があるから、言葉にするのを諦める」し、また時には「言葉にする必要がない」くらい個人的な感情だ。 個人的なのだから、自分の外にそれはない。他者とは世界であり、物体である。音としての言葉も他者である。自分のうちに、その霊性神性の感情はある。つまり、神様を信仰することはそれにあたらない。なぜなら神様は自分の外の存在であり「他者」だからだ。 自分のうちなる存在であるその霊性神性の感情を、無意識と考えて、それを神様だの超越者だのというのは自由だ。でもそれは名義の問題でしかない。名義とはつまり言葉の問題だ。だから、名義とは間接的な他者でしかない。そんなものは、自分のうちなる存在と何の関係もないのだ。 僕も日記は「語りえぬもの」つまり自分にしか伝わらないものとして書いている。それが「語りえぬもの」的な快楽につながる(性的快楽が非常に語りやすいものであるとの違って、その快楽自体が語りえぬものだ)。もし、わかりやすくするような目的が必要になったら、またその方法を悩めばいい、と。それまではより遊び的でありたい。 Komm Susser Todが劇場版で使われたシーンをテレビで流したら、ものすごい苦情がくるだろう。というかたぶん放送したひとが巨大なイジメを受けるだろう。そもそもでエヴァンゲリオンは現在の7時から10時くらいのテレビが目指している「健全」それも頭足らずのモンスターペアレントがつくりあげた「健全」と、間逆の存在だ。その「健全」は、倫理的・合理的「健全」とはかけ離れたもので、偽善よりもなお偽善的である。Komm Susser Todはそれとは反対のものだ。でも、人は「反狂気」だけで生きるものなのか?それはフロイトやユングからはじまるような問いだ。狂気の可能性をなんとなく信じているので、Komm Susser Todの「感情」にひかれるのだろう。 ほんとうは、NHKと教育以外テレビなんて見ないんだが。どうも、エアコンが頼りにならない環境において、夜10時以降はこたつの魅力とかに負ける。 ただ、時間が決まっているものは、やはり苦手で、世界の車窓とか世界遺産が見たいと思って時間をチェックしてたのに、いざテレビをつけてみたらエンドロールが流れてる。テレビなんぞに時間を定められたくないという意地もある。