クロイツェル
「あああああーあーあ。」「ああーあ。」何故私はこんなところに居る。私のような人間がお見舞いだなんて、世も末だ。末だよ。末の果てには何がある。終末。終末のあとには何がある。週末。日曜日のあとの月曜日。「お医者さんは、再来週には退院できるって。」ありがちな果物の山。りんご。るぃんご。めろん。めろめろめろん。おれんじ。おれおれんじ。きういふるーつ。まんごー。みゃんごー。みゃんごぅー。ごぅー。翼が生えて真空に消えそう。めろめろ。おれおれ。あああああーあーあ。何故私はこんなところに居るんだってば。「早く元気になって。」学校おいでよ。とか言うのか、あんた。「学校に来れるといいね。」学校においでよぅーぅぅ。さて、何故私はこんなところに居るんだっての。早く終わらせて帰りたい。毎日くりかえしてる。家に帰れば、宿題が私に挑戦状をたたきつけてくる。その先には自由が、偉大なる自由が待っている。おお、我が敬愛する自由よ!そのありがたき御名を我に!・・・るらるすさすしむらず。受身尊敬自発可能。ふらむけむすてゐむ。ふるふれ。しむる。Heh, What's the hell! You are an idiot!病院の庭は晴れていた。庭の噴水は枯れていた。噴水のまわりの草はまき散らされた水滴で濡れていた。噴水の天辺に居る汚れた石膏の胎児のような天使達は、私を睨む。私はそれで石化した。入院している子と最も親しい子だけが、基本的に喋り続けていた。私は、架空の用事をでっちあげて、先帰るねとか言えば良かった。後ろから声がきこえる。「お疲れ様。」彼はありがちな車椅子に乗っている。庭の天使像に向かってひとりで喋っている。彼の眼には、その天使は生身で動いているように見えるのだろう。彼はまだ若い。私と同じくらいの年齢。だけど、長い闘病生活をその身に誇る患者にルックスを期待してはいけない。今はやりのかっこいい、かわいい病人様は、テレビドラマから外へは出れない。「ああ、疲れた。なあ、飲みに行こうぜ。」と、天使像は言った。「明日、朝早いんだ。」彼は言った。「そうか、そりゃあ仕方ないな。まあまた今度な。」天使像は少し寂しげに言った。「ああ。悪いな。」健康に良さそうな薬品の匂いと健康に悪そうな薬品の匂いが混じる病院。終わったって。お見舞い。ふう、やっと出れる。ところが、私は、帰り道で、何を思ったか突然倒れてしまったらしい。漫画みたいに。転んで、そのまま、みたいに。それにしても、結局あの病院に戻るだなんて。「あー。」過労?睡眠不足?「あー・・・。」「毎日、がんばりすぎて睡眠削ってたんだね。まあ、若いんだから、時間はいっぱいあるんだ。もっと気長に、そう、もうほとんどぼけーっと生きる、ってくらいってのはどうだい。ははは。」「はい・・・。」家に帰って、宿題を。「待って。」「え?」さっきの車椅子の彼。「君だけだよ。毎日欠かさず、あの子にお見舞いに来てくれてたのは。」「え?」「きっと君は大層いい大人になるのだろうな。楽しみだ。大学も、きっと受かるだろう。だから、長生きして欲しい。」「・・・?」「いや、僕には何の力も無い。すまない。行こう。」彼は魔法使いの人形を連れてどこかへ行った。外では胎児のような天使像達が庭の草刈りをしていた。噴水からは水がふきだしていた。空には、ロボットの兵隊が、国の安全を守るために日夜警備の為の巡回をしていた。病院の壁には、「クロイツェル」という名の演劇のポスターが張られていた。そのポスターの横には、フランス語で書かれた謎の奇怪な文書。天井のランプの炎は、謎の炎色反応を起こしたせいで海の色を放って燃えさかる。そして私の手には、宿題が全て完璧な解答とともにやり終わったその姿をあらわしていた。これは、戦利品さ。私だけのね。私は笑ってしまった。だって、彼らがあまりにも真剣なのだから。私が着ているのは、都内で一番女子の制服がかわいい学校の制服。なのに外には、江戸時代みたいな格好のひとがいっぱい。間違いなく一番もてるのは私。「病院には天使が居るという。何故?白いから。白いもの。壁。光。目玉。天使の肌。悪魔の内臓。卵の白身。カーテン。月。雪。今日も点滴針たちは、患者たちの体内の血管を必死に探している。」病院の院長先生が現れた。彼は自慢のボイスチェンジャーを使って私にそう話しかけてきた。「私、注射は嫌いだよ。だって痛いじゃん。」私は気づいたら点滴の柱を掴んでいた。だけど私を刺すための針なんてどこにも無かった。それでも、その点滴の柱を放すことはできない。ああ、これからしばらくは、トイレに行くにもこいつといっしょ。ああ、お互い、恥ずかしいね。これから。わかるよ。「あああああーあーあ。」「ああーあ。」「ふふふ。」「長生き、か。長生き、ねえ。」ガターン。ガラガラ。と、何かが運ばれる音。私は現実の病院の椅子に居た。太陽が傾いていた。私は、長い間眠っていたらしい。別に勉強の為に睡眠時間を削ってたわけじゃない。そもそも、私は車椅子の彼に「大学も受かるだろう。」とかすら言われてない。そもそも、私は病院の帰り道で倒れてすらいない。そもそも、私は病院を出てすらいない。見舞いのあいだ、私は病室の外の椅子でずっと眠っていた。病院によくある皮のソファを、まるで抱き枕のように。私の制服のスカートがあと少しで危ないぞというところまでめくれあがっていた。友達は誰も私を起こさなかった。まったく。寝てる間の私に、セクハラを筆頭に何かあったらどうしてくれたんだ。まったく。今日もこのなまぬるい病院の廊下を、長生きをした人々と、長生きをしたい人々が通る。はあ、長生きか。ん?長生き?あ、そうだ、宿題やってない。もう夕方?やばい。あああああーあーあ。庭では相変わらず車椅子の彼が天使像と喋っていた。「お疲れ様。」