麻痺麻痺
私たちはなぜ悩むのか?お金がなかったら、飢えるかもしれない。行動したら、傷つくかもしれない。すべてつまり、私たちは、痛みを感じることに対して苦悩する。飢えという痛みや、精神や肉体を傷つけられる痛み、そういったものを避けたくて、苦悩する。痛みに対する恐れや実際の痛みに対する苦しみから、怒り、妬み、悲しみ、といった雑念が生まれる。痛みを与えてくるものや、与えてくる恐れのあるものへの感情が、怒りになり、それを避ける方便の探索の上で妬みが生まれ、実際の痛みのなかで悲しみがうまれる。 私たちは、痛みを感じることをやめれば、全て人生の苦悩から放たれ、楽になる。ヨガとか仏教とか、みんなそこから出発した。私たちの命が、より長く生き延びるための学習機能である痛みは、それがなければ長く生きられないが、しかしこの世で生を最も辛いものにする。 そういった理論はいくらでも見つけ出せるし、たくさんの注釈であふれかえっている。ただし誰も言ってくれないのは、「どうやったらそれができるのか」だ。私たちは感覚を制御して、痛みを止めれば幸福になれる、それはわかる、でも、どうしたらそうなれる?という実践を聞いたとき、うまい答えはそこで止まってしまう。 私たちになぜ痛みがあるのかについてのもうひとつの考えは、「ゲーム」を人生とみなす考えだ。つまり、ゲームは「障害」がなかったら、敵とか解決すべき課題がなかったら、楽しくない。ひとりでやるゲームでチートを使ったり、ただ簡単あ操作だけでクリアできてしまうゲームは楽しくないけどなかなかクリアできなかったり、神経使ったり頭を使って解決するときはやりがいと感じるのと同じで、人生に障害がなかったら楽しくないという考えだ。 けれどもどうだ、もしそのゲームがハードすぎたら私たちはコントローラーを放り投げて、売り飛ばしてしまうだろう。これは人生に例えれば自殺だろうか。 また、もしゲームのハードの調子が悪くなって、うまくプレイできないなってなったらこれもまた、買い換えるか、もうやめておくかするだろう。これは、老年に自然死か自殺して、もう一度輪廻転生で生まれ変わるか、やめておくかみたいなものだろうか。 それにゲームのプレイヤーは「これは本当の生ではない」とわかっているからいい。ゲームでミスをしたところで、プレイヤーに実際の痛みがあるわけではない。今のゲームの技術と現代倫理からしたらもちろんそうなのだが、もしも実際にプレイすることでプレイヤーが操作する対象と具体的な痛みを共有し、なおかつその痛みを与えてくるプラグを外してプレイする方法がわからない絶対的なゲームがあるとしたら、人生と同じだ。それにはセーブポイントもないし、ゲームオーバーでまた最初からだ。攻略サイトで情報を手にしても、それが間違っているか正しいかは実際プレイしてみなければわからない。 しかし実際何より恐ろしいのは、「飽きる」ことだろうか。バグや裏技はしかし飽ききったゲームの世界に再び情熱を与えてくれはするのだが。 いかにゲームに選択肢や自由度が高くても、いちいち間違えたときにはじめからやり直すのはしんどい。私たちはセーブポイントがあるからこそ安心して間違った行動をとったり、自由度を楽しんだりできるものなのだが。