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マックの文弊録

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2007.08.15
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カテゴリ:IT世界の話
◇ 8月15日(水曜日) 旧文月三日、辛巳。 月遅れ盆、終戦記念日、奈良春日大社万灯籠祭。

待つことは信じることである。「信じる」ということには理屈は絡まない。「信じる」は理屈を超越したところにあるものである。

「理屈に合っているから信じる」というのは、実は理屈に合わない。何故なら、理屈に合っているのならそれは最早既知の世界での話であり、既知の話を敢えて「信じる」必要などないからだ。

例えば、明日抽選になるサマージャンボ宝くじだ。
確かジャンボ宝くじというのは全部で2億枚ほど売り出されるのだと以前聞いた事がある。それで、「億万長者が百人超」なのだそうだから、ある特定の個人が一等賞に当選する確率は0.000001、つまり百万分の一程度になる。これが「理屈」である。
因みに百万分の一の確率とはどの程度のものかというと、都会で朝家を出てから宵に帰宅するまでに交通事故にあって命を落とす確率にほぼ等しいのだそうだ。つまりは「まぁ、あり得ないことではないな」という程度の確率なのだ。実際「・・・・でも、買っておかないと当たらないでしょう。」といって宝くじ売り場に立ち寄る人が殆どだろうと思う。

信じるというのはその先である。良く当たるからと、数寄屋橋の売り場や池袋駅の売り場に長蛇の列を作ること、或いは大安吉日を選んでくじを買うなどというのは、超常的な力を信じたいが故である。また、バラではなく連番を買えば、前後賞も当たる可能性があるからというのも、同じ類である。
理科系のクールな人間は、「大勢買えば、その売り場から当りくじが多く出るのは当たり前。」、「バラだろうが連番だろうが確率は同じ。」、「大安吉日は全員にとっての吉日なんでしょう?」などと冷ややかに見るものだが、そのくせ自分で買おうというときには、良く当たる売り場に大安の日に出かけたりするものである。

宝くじの縁起担ぎは未だ可愛いものだが、もっと命に関わるような件で、まさに「信じる」しかなくなった時には、ことはいささか深刻になる。そう云う時の「信じる」ことは、「理屈に合わない」という状況であることのほうが多い。だから周りは「そんなことを信じているなんて。」とか、「結局騙されていると考えたほうが普通じゃないの?」という視線や意見を送ってくる。「分かる範囲のことしか信じない」ということはそう言う事なのである。しかし、信じる側からすれば、「理屈に合わないけれど信じる」という試練を課せられる。むしろ「信じるとはそういうことなのだ」という心境がだんだん分かってくるのである。これはまた「賭け」にも通じる。駄目になったときには甘んじて訳知り顔の周囲の謗りを甘んじて受ける。そういう覚悟もしなければならなくなる。それが信じることのために購わなければならない対価なのだろう。そして、恐らくはその葛藤の先にしか信じることの成就はあり得ないのだろうとも思う。

甚だ非論理的であり、当方自身にとっては今までの人生観の対極にある思想なのだけれど、最近は心底そんなことを思うのである。







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最終更新日  2007.08.17 20:12:37
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