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こんにちは、資料館です。 今回は、その補足版ということで、葛野地区和田原から葛野川左岸沿いに浅川地区落合に抜ける道を紹介します。 上の写真は、和田原にある道標です。 高さ80cmほどの自然石に、中央に「南無阿弥陀佛」、向かって右に「右ハあさかわ」、左に「左ハい□□」と刻字されています。 残念なことに「左はい」の下の部分が剥離しているために読み取れませんが、右へ進むと浅川へ向かうことを示していることには間違いはありません。 この道は、いったいどんな道だったのでしょうか。 右が現在の地形図、左が明治時代の地形図です。 赤丸●の所が、道標と指差し地蔵が置かれている場所になります。 右の現在の地形図の、葛野地区内を通る黄色い道が県道505号小和田猿橋線、赤い道が国道139号です。 左の明治時代の地形図では、県道も国道も直線と破線の組み合わせの二重線で表記されています。 そして、葛野川左岸の道標から浅川地蔵を経て落合へ抜ける道も直線と破線の組み合わせです。 他の道は、破線の二重線、破線の一本線です。 直線と破線の組み合わせの二重線と破線の二重線は里道と呼ばれた道で、前者を聯路(れんろ)、後者を間路(かんろ)といいました。 また、破線は小径(しょうけい)といいます。 それぞれの幅員について調べたところ、明治時代には明確な規定はありませんが、里道の2つは荷車の通れる幅をもった道であることが大正時代の規定から類推できます。 小径は、国土地理院が徒歩道(1m未満の道)として規定する道、辞書的に言えば「二人以上並んでは通れないほどの小道」でしょうか。 明治時代の地形図では、現在の県道・国道・左岸沿いの道も同じ「聯路」の地図記号で表記されています。 ということは、明治時代までヒト・モノ・カネ・情報・文化を運ぶ道としての役割を同等に果たしていたのではないかと考えられます。 再び、右側の現在の地形図を見てみます。 左岸沿いの道だけが「徒歩道」に格下げされただけでなく、道標から小泉集落外れまでと指差し地蔵手前の道が消失しています。 実際に歩いてみると、小泉集落外れから始まる徒歩道の入口付近には、多数の馬頭観音があり、整備された道も500mほど続きましたが、そこから先は道は崩れて踏み跡もなくなり地図アプリをたよりに進まなければなりませんでした。 中間地点を過ぎ、2011(平成23)年9月の台風12号の豪雨がもたらした深さ20m、長さ600mに及ぶ深層崩壊による土石流が発生した場所では、土石流を止める大きな砂防堰堤(ダム?)の上部へ大きく回りこまなければ沢の向こうには行けませんでした。 10年以上も前に災害によって道が消失しているのに地図に反映されていないことがわかり、地理院地図だからと信用過ぎるのも考えものだとつくづく思いました。 さらに進むと「指差し地蔵」が道の右側に見えてきます。 道標ですから道の分岐点に多くの場合は置かれます。 しかし「指差し地蔵」の正面に道はありません。 道があったとしても、ここまで歩いてきた道は「山道」などではなく、立派な生活道です。 おそらく、道標は少し先にある沢沿いの百蔵山への道の分岐点にあり、沢の治水工事をしたときに移設されたのではないかと思います。 沢を進み畑を横切り、集落の家並みが始まる手前に葛野川へ向かう道があります。 道は、段丘崖で途切れてしまいますが、崖渕には百番供養塔や牛頭観音などがあり、かつては橋もしくは渡しで対岸の道とつながっていたことがうかがえます。 集落をすぎて「落合橋」をわたると県道511号浅川瀬戸線と合流します。 ※おまけ 道標の「左ハい」の下には何という文字が続くのでしょうか? 葛野の近くで「い」で始まる大字名は「いわどの」(岩殿)しかありません。 仮に岩殿だとすると、猿橋方面から来た人のための道標ですから、直進して七保橋を渡り畑倉を経由して行くことになり、下和田から強瀬地区川隣りへも葛野川を渡ることができたので、遠回りすることは考えられません。 小字となると「いやま」「いどち」などがありますが、よほどの名所でなければ小字を進行方向を示すのに用いることはないと思います。 みなさんは、どう思いますか?
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最終更新日
2024年09月28日 16時17分17秒
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