ダンスホール
8月ももう終ろうとしているのに猛烈な残暑。 今年の夏は観測史上、記録的な猛暑らしい。 大阪では連続猛暑日が13日となって過去最長を更新した。おかげで熱中症患者も多く、死者もかなり出ている。 この猛暑で参っているのは人間ばかりでなく、牛・豚などの家畜も影響がかなりあるらしい。 また、野菜・果実もだそう。どうやら、日本の四季も危うくなってきているようだ。政界も暑くなっているようで、かなりおかしいし・・・さて、ダンスホールといえば、東京では有楽町の「東宝ダンスホール」(1969(昭和44)年5月創業)が有名でしょう。 もう1箇所、鶯谷の「新世紀ホール」。 ここは映画「Shallwe ダンス」の舞台にもなったホール。名古屋では「ウインターガーデン」があります。 名古屋朝日会館(朝日新聞名古屋本社のあるビル)内にあります。大阪では現存するのはミナミ・宗右衛門町の「ユニバース」のみ。 レストランビル「味園(みその)」内にあるダンスホール。かつて大阪には、社交ダンスの殿堂といわれていた老舗「ワールド」(2001年1月31日 閉店)が梅田にありました。 ここにはよく行きました。 尚、ここも映画「Shallwe ダンス」の舞台に使われました。 また、ミナミ・宗右衛門町には最盛期 ダンスホールが数多くあり、「富士」や「メトロ」もありましたが、いずれも閉店。 平成3年11月にはダンスホール「メトロポリタン」も閉店。 ダンスホール この言葉に、一般の方はどちらかというと、あまり良いイメージをいだく方は少ないでしょう。 そう、遊び人のイメージがつきまとうからです。しかし、社交ダンスというものは健全なスポーツともいえるものです。 それほど体力が要るものなのです。最近は中高年の方が社交ダンスを習う方が増えているようですが、マトモにやるなら上記のごとく、本来は体力も要るので、若い方向きです。 競技ダンスがその見本ですね。しかし、男女が組み合う ということが悪いイメージを与えているのかもしれません。 また、「夜の遊び」といったイメージもつきまとっているからかもしれません。最近では、役所広司、草刈民代主演の映画「Shall we ダンス」や、ウッチャン、ナンチャンのテレビ番組「ウリナリ芸能人社交ダンス部」で社交ダンスブームを再浮上させました。社交ダンス、英語では Ballroom Dance といい、欧州諸国の宮廷の舞踏会が基本になっています。 尚、日本語で言われるソシアルダンス(Social Dance)は、sociality dancing(社会性のダンス)という言葉から由来しています。社交ダンスの原型はウインナワルツで、欧州の民衆の踊りでした。 12世紀ごろから王侯貴族たちにとりいれられ、ルネサンス(14世紀~16世紀にイタリアを中心に西欧で起こった歴史的文化革命)のころヨーロッパ各地で流行ました。日本で社交ダンスが行われるようになったのは、鹿鳴館時代(明治16年~明治23年)。その後、1918年(大正7年)鶴見の花月園にダンスホールが開設されて、富裕層など上流階級の間で欧米流の社交ダンスが盛んになりました。一般庶民に社交ダンスが広まったのは、第二次大戦後からです。 当時、進駐軍向けにダンスホールが多数開かれ、ダンスパーティーが流行りました。さて、私も若い頃に社交ダンスをやってましたが・・・ あ 決して遊び人ではありましぇ~ん!このきっかけは、20代半ばのとき、女友達にサパークラブに連れて行かれ、「ダンスが出来なくて悔しい思いをしたから」という不純な動機ではありますが・・・もっとも、オヤジが昔 社交ダンスでならしてた というのもあります。(茶道・華道もそうです) なぜか、オヤジのやっていたものをやりたくなるのは、やはり遺伝でしょうか?それに、早く先立たれたから というのもありますね。オヤジは電信専門学校(現 電通大学)卒で、昔からハイカラさんのようでした。 前にも書きましたが、戦時中は呉の潜水艦基地で電信係をやっていて広島原爆も見たそうです。 当時の緘口令で口に出来なかったそうですが・・・幸い基地の下士官付きで艦隊乗務をしなかったので、終戦まで無事でしたが、艦隊乗務をしていたら、生還はまず無理だったでしょう。そのため、英語もそこそこわかり、中学生まではオヤジが教えてくれましたね。開戦前は中島飛行機に勤務していたそうです。 そして、終戦後は大阪・安治川の汽車会社(現 川崎重工業)勤務。その後、どこでどうなったのかわかりませんが、町の印刷屋の営業となり、その頃に接待などでキャバレー通いをし、社交ダンスでならしてた というわけです。 いっときは母の妹と組んでコンテストにも出たらしい。(入賞したことはなかったらしいです)そして、その後 またまた何を血迷ったのか、鉄工所の職人(正確には金型職人)びなり、前述のような派手な生活は無くなり、かなり地味な人生を送ってました。 私はこの地味なオヤジしか知りませんが・・・さて、話が横道にそれましたが、私も社交ダンスを習い始めてわかりましたが、かなり体力が要ります。 運動量はハンパなものじゃない。ただ、やはり世間的にはあまり良い遊びとは思われていないようです。 前述のように、男女が組み合う というのが最大の誤解要素でしょう。もっとも、男女が組み合わなければ社交ダンスは成り立ちませんが・・・(ま、多少ヨコシマな考えも無きにしもあらず・・・ ですが・・・)さて、日本におけるダンスホール(尚、ここでは社交ダンスに限らずデイスコなども含めています)の歴史ですが、1945(昭和20)年、東京銀座のオアシス・オブ・銀座、美松、ハレム、銀馬車、グランドパレス、エーワン、ショーボートなどが進駐軍兵士用施設として開業。翌年 1946(昭和21)年、日本人専用ホール開業。 ここから数年間、社交ダンスブームになる。1974(昭和49)年 ゴーゴーなどが流行り、地方によっては社交ダンスもいっときブームになる。1984(昭和59)年 大規模で豪華な内装を売り物にした高級ディスコが隆盛し、麻布十番「マハラジャ」、青山「キング&クイーン」、六本木「エリア」、「シパンゴ」が大人気となる。1989(平成 元)年 ランバダが流行、デイスコダンスクラブが全国に多数開業。 1991(平成 3)年 東京都港区芝浦に「ジュリアナ東京」がオープン。 ボディコンの女性たちがジュリ扇を振り回し、お立ち台で踊るといったブームが生まれた。ジュリアナ東京ブームは地方にも飛び火し、人気が衰えていた地方店の「マハラジャ」、「キング&クイーン」などもブームに便乗し全国的に再浮上。1996(平成 8)年 周防正行監督作品の映画「Sall we ダンス?」ダンスブーム復活。いまや社交ダンスは衰退し、それにつれダンスホールもほとんど残っていません。 現在残っている所でもキャバレー兼業で、その本命のキャバレーも社用族の急減で、いつまでもつことやら・・・相変わらず大学からアクセスの多い別ブログ またまた更新してます!●別ブログ 08/29の新着は「DIY Part3」 前回は「DIY Part2」 別ブログ、コメント欄は開けてますが・・・即時表示されません。尚、こちらではレスしておりませんが、あちらではレスしております。