|
カテゴリ:旅に出て人と会う
【12月16日・水曜日】 遅く寝たにもかかわらず、目覚めたのが朝5時半。アブデュラーさん一家の4階建ての大きな家はまだ寝静まっているが、ちょうど階下でドアの閉まる音がして、奥さんのメラハットさんがアブデュラーさんの出勤を見送るらしく、かすかに車の音が聞こえた。 メヴラーナの追悼祭シェビィ・アルースの期間中はことに海外からの来訪者が多いので、コンヤで数少ない英語の出来るタクシー・ドライバー、アブデュラーさんには、古い馴染み客もたくさんいて引っ張り凧なのだった。 早いときには国際線の一番機に間に合うよう3時起きして、客を送り迎えし、そのまま夜中の1時過ぎまで働くことが多いのだそうだ。タクシー・ドラウ(タクシー・プール)に戻ってくると少しでも車の中で眠り、睡眠不足解消に努めているとか。 9月にお母さんが亡くなったチャーダッシュ家のお父さんは85歳だが、60年も連れ添った愛妻を失って急に老け込んでしまい、4人の娘達と嫁のメラハットさんが交互に面倒を見ている。姉2人、妹2人の真ん中にアブデュラーさんがいて5人きょうだいのチャーダッシュ家は、嫁に出た妹2人も同じ町内に住んでいるとのことで、お父さんの世話に交互に実家に泊まり込みで手伝いに来ているのだった。 女性達が長女のアイセルさん(児童教育問題専門家)、次女のミヤセさん(コンヤのセルチュク大学家政科准教授)、アブデュラー夫人メラーハットさん、嫁いでいる三女サニエさんと同じく四女アイシェギュルさん、みんなたいそう仲が良く、日本ではもうきっと見られなくなった大家族で普通の家より広いダイニング・キッチンが狭いほど。 チャーダッシュ家の朝食。4つ星ホテルくらい品数豊富。 ここに盛り付けただけでももう十分お腹が膨れるのですが、 もっと、もっと、といろいろ出してくれるのです。 お父さんと末娘アイシェギュルさん 左アブデュラー夫人メラハットさん、右、次女ミヤセさん。 長女アイセルさん。児童教育一筋の先生です。 次女ミヤセさん。セルチュク大学の家政科准教授、服飾専門家 もう一人アブデュラーさんのすぐの妹サニエさんは週末の当番 1回に作る料理の品数と量は半端ではなく、まるでちょっとしたロカンタの厨房のようである。お姉さん2人は特に情の深い感じで、年取ったお父さんにはもちろん大事に接し、弟のアブデュラーさん、2人の大学生の甥っ子達と、高校生の姪っ子をたいそう可愛がっており、もちろん嫁いだサニエさんやアイシェギュルさんの子供達にも等しく愛情を注いでいるのが伺える。 この家での会話は文化的で、政治や経済、教育の話、世界の情報などなど幅広く、内容がやや難しいが、アタテュルクとメヴラーナを誇りとしており、私からも日本文化を吸収しようとしてくれるのだった。もし、私に外出する用事さえなければ、高度な教育者でもある姉妹を相手に、一日中ディスカッションと食事で過ごすことになりそうだ。 アブデュラーさんの豪邸、石塀に隠れていますが4階建、長方形プラン、 4階はテラスと破風のついたお洒落な部屋があります。各階バルコン付。 こんな素敵な部屋で泊めて貰いました。18,19とまたお邪魔することに・・・ さて、本日も午後1時くらいに、アイシェギュルさんの夫、オウズさんが私を街中まで送って来てくれた。 「すみません、オウズさん。あなたには何度も送り迎えして頂いて、何のお土産も持っていないのが恥ずかしいです」 「何を言われますか、加瀬ハヌム。家内に素敵なお土産を頂いて私も喜んでいますよ。私もこの家族の一員ですから、あなたのお手伝いをして当然です、遠慮せずにいつでも必要な時に声をかけてください」 この夏、癌性の腫瘍手術をして休職しているのに、こうして送迎に来てくれた穏やかなオウズさんの優しい言葉にも感動した。 メヴラーナ広場に面した、メヴラーナ大通りには9月下旬から新しいトラムワイが開通している。オウズさんを見送ったあと、メヴラーナ広場に面したバッカルの前から、私はイクコさんに電話してみた。 すると、坊や2人を学校に送り届けた後、時間を持て余して一人でぶらついていたところです、とイクコさんの弾んだ声が返って来た。しかもすぐそばのソカク(横丁)にいるとのことで、5分もしないうちに私のいる場所に来てくれた。 彼女の夫君アリさんのお店も近くだったので、そこにスーツケースを預かって貰い、入用のものだけ持って2人で仕立屋シェンギュルさんの店に向かった。アリさんの店のすぐ1軒おいて隣は、人間国宝メフメット・ギルギチさんのフェルト工房だった。 メフメット・ウスタは今、コンヤの店をラビア夫人に譲って、イスタンブールの店に専念しているので、私はラビアさんの顔を見にドアを開けて入って行った。 彼女もアルゼンチンからウスタのもとに弟子入りして20年余り、メフメットさんと結婚して2人の間の息子も成長し、前夫人を母とする幾人もの兄達に交じって、彼はいま大学に行きながらフェルトづくりにも励んでいる。ラビアさんはメフメット・ウスタに替わって、コンヤの本店を守る堂々たるウスタ(親方・師匠)だった。 チャイをご馳走になり、また後日来られたら顔を出すからね、とそこを辞して、今度こそシェンギュルさんの店に向かった。もちろん、何も事前に告げずに来たので彼女の驚きよう、喜びようは尋常ではなかった。 彼女には足腰を冷えから守るユニクロの股引風なタイツを土産に持って来ていた。去年池袋で買ったのに、どこに仕舞いこんだか見当たらなかったのである。 足や膝の痛いシェンギュルさんは今も私の顔を見る度、ドクトル(鍼灸師)を呼んでほしい、と毎回言うのだが、それは無理だと断るしかなかった。 シェンギュルさんは近所の店からコンヤ・エトゥリ・エクメッキを取り寄せてくれたので、私達は2人で一人前にして貰い、有難く頂いた。 そのあと、私達は歩いてもほど遠からぬアヌ・ホテルにアイドゥン社長を訪ねて、10月にシワス行きの日程を変更した時に買い直したチケットの料金を払いに行った。 社長も、お父さんであるベキル会長(コンヤの勝新)も留守だったので、電話で話をして借金だけは払い、チャイをご馳走になって外に出た。 イクコさんとぶらぶらしながら店に戻り、預かって貰った荷物を受け取り、彼女にイスタンブールから持って来た白菜を預けて、夕方タクシーで今日・明日お世話になるメフタップさんの家に向かった。 メフタップさんの母堂、ハスレットさんは95歳、夫君のムスタファさんは80歳、メフタップさん自身も67~8歳くらいだが、みんな元気で、特にハスレットさんは身仕舞いもきちんとしていて、歩くのにしずしずとしか歩けないが、じぶんのことはすべて自分でこなし、昔の記憶もしっかりしていて、テレビをよく見ているので現代の話題にも通じていた。 私の選んで来たスカーフをとても気に入ってくれて、親子でもメフタップさんとはまるで違う性格だし、好みも違うので2人へのスカーフは対照的な色模様となった。 明日は12月17日、メヴラーナ追悼祭第742回シェビィ・アルースのフィナーレでもある。ユジェルさんにお願いしてあるので、朝のうちにインフォメーションに行って、チケットを受け取らなくてはならない。 晩はメフタップさんのお得意料理で、こちらでもまた腹いっぱいご馳走になり、夜寝る前にこっそりと太田胃散など飲んで、2004年以来、長い付き合いのオズ家の寝室に横たわったのだった。 アントニーナ・アウグスタ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015年12月24日 18時00分31秒
コメント(0) | コメントを書く
[旅に出て人と会う] カテゴリの最新記事
|