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カテゴリ:旅に出て人と会う
【12月17日・木曜日】 写真を後刻追加します。 今日17日はメヴラーナ追悼祭のフィナーレ、つまりシェビィ・アルースとメヴラーナ自身が名付けた命日当日である。 セマーの儀式で、シェイフ(道場長)、あるいはメヴラーナを象徴する存在であるポストニシン様(ポスト=毛皮、ポストニシン=ポストに座る人)は、現在コンヤ・トルコ神秘主義音楽楽団の団長を務めるファフリ・オズチャクル氏が任命されているが、団長としての職務が多忙を極めているので、昨年秋ごろ文化観光省は、団長が留守の時に補佐するもう1人のポストニシン役を任命した。 それがアフメット・サミー・クチュック氏で、彼のセマーゼンとして、見るからに無我の境地にある熱の入った旋回ぶりは、各種のポスターやDVDに取り上げられているのでつとに有名だった。 今日の午後のセマーでは、ファフリさんが公務で外せない用向きがあるので、ポストニシン役はサミーさんが勤めると決まっていたらしく、私はそれを知らなかったのでいつものように、ファフリさんに午後の舞台で伺います、と挨拶の電話を入れたところ、ファフリさんは夜のフィナーレの時にしか登場しないことが分かった。 「由美子ハヌム、もしお望みでしたら夜の部に私に割り当てられている席がありますので、そちらにお取りしますよ」とファフリさんが言ってくれたが、そこでまた幾人かの手を煩わせることになるのも申し訳ないと思い、私はそれを辞退して(やせ我慢ですが)、予定通り昼間のプログラムに行くことにしたのだった。 シェビィ・アルースにはるばるやって来てファフリさんの舞台姿を見られないのは残念だが、夕方、友人のエスマさんに会う約束をしていたので、夜、メフタップさんの家に帰ったらテレビ観賞すればいい、と思っていた。 金曜日にはメフタップさんの家の後ろ側の広い空間で、金曜市場が開かれる。彼女のお母さんはその市場の様子を、ベランダをすっかりガラスで囲った小部屋から、日がな一日楽しみに往来する人々を見ているのだそうだ。 ふと見ると、日本の大根らしいのがあったので、私は家を出るときそのうちの1本を買って、今日、街で会う約束をしたエスマさんに預かって貰おうと思い、長い大根を抱えてタクシーに乗り、ユジェルさんから招待券を貰って、会場のメヴラーナ文化センターに向かったのだった。大根を持ってセマーに来る人なんて私だけだな、おそらく。 昼間のプログラムには満席と言うほどではないが9割5分の入り、という感じである。私がコンヤに通うようになってからも10年以上経っているのだが、その頃ですら、フィナーレのセマーは満員で会場が狭すぎる、と言われていたのである。 昨(2014)年、コンヤ市に1万人のキャパシティを持つと言う、総合スポーツ・センターが建設され、14年のシェビィ・アルースでは初めて17日のフィナーレをそこで実施したとのことである。そのとき私は、父の3回忌で日本におり参加出来なかったが、会場が広すぎて、セマーの神秘的な雰囲気が出なかったらしい。 新しいポストニシン様のサミーさんは、まだ40代後半だと言うのに、濃いあご鬚もほとんど白くなっており風格十分。私もかなり前から知り合いなのだが、見たところ、7歳年上のファフリさんより年長に感じられる。 荘厳な雰囲気の中でフィナーレの一つ前のセマーの儀式が終わったのが午後4時少し前だった。エスマさんの用事も4時半には終わるとの連絡があったので、5時近くまでターヒルさんの店で待たせて貰い、待つ間に、イスタンブールに持ち帰るお土産のコンヤ飴をそこで買った。 そのうちにエスマさんが、技芸学校を出た、と言うので、9月以来3ヵ月ぶりの再会を喜び合い、近くの「ボル」というロカンタ(食堂)で、大好物のコンヤ・エトゥリ・エクメッキを食べた。 これはエスマさんがご馳走してくれたのでその後、私が食後のチャイを、とメヴラーナ広場に向かい合ったターヒルさんの店の隣にあるカフェに誘った。エスマさんは「あら、この店素敵ですね。私初めて知りましたよ。お友達と会うのにいいですねえ」とエスマさんは喜んでくれた。 私達は19日に予定している「手作り餃子で女子会」の打ち合わせをした。私はコンヤでは手に入らないかもしれない白菜をイスタンブールから持って行き、おととい出会ったイクコさんの家の冷蔵庫に預かって貰っていた。 エスマさんは今度の女子会には、家を提供してくれた上、挽き肉や玉ねぎ、キャベツ、にんにく、しょうが、鰹節出汁などを用意してくれることになり、お礼を言うと、「こちらこそ、加瀬さんのお陰で皆さんが集まって下さるし、餃子の作り方などを教えていただけるのですから有難いです」と優しく答えてくれた。カフェで過ごしているとき、私は彼女に忘れないうちに大根を預かって貰った。 明日、18日にはアンカラから日本語の先生ミチコさんがみんなに会いに来てくれる。ミチコさんと私は日曜日までの2泊をアヌ・ホテルに取るつもりでいたら、満室だと言う。ほかのホテルでもいいのだが、アブデュラーさんやお姉さん達が「どうしてホテルなんかへ行くの、ミチコさんも一緒に家で泊まればいいじゃないの」と言う。 一方、メフタップさんの家でも「なあに? ミチコが来ると言うのにどうしてうちで泊まらないの? 泊まりなさい、泊まりなさい、うちで!」と言われるのだった。 あさって、女子会に集まるメンバーは、エスマさんのお宅に、メヴラーナ大学の事務員を退職し、いまは自宅で翻訳の仕事に精を出していると言う恵さん、小学生の坊やを育てる傍ら、トルコ語教室にも通っているイクコさん、そしてアンカラから古巣に戻ってくるミチコさん、そして私の5人、みんなが楽しみにしていてくれるのだ。 あれやこれやと話題豊富で、エスマさんとはすっかり話がはずみ、とうとう7時を過ぎてしまったので、慌てて帰り支度し、いよいよシェビィ・アルースのフィナーレが始まるので、まっすぐメフタップさんの家に戻った。 ところが私がしばらくぶりの訪問だったので、メフタップさんが一緒に見ようと私の脇に腰掛けて、シェビィ・アルースの夜にふさわしく、それはそれは賑やかに・・・と言っても、画面に映る誰彼となく、たとえば大統領であろうと首相であろうと野党第一党の党首であろうと、わけへだてなく痛烈に批判しながら、キンキンとした声で喋りまくるので、かなり疲れてしまった。 聞いていないと相槌を求められた時返事に困るし、とうてい私のつたないトルコ語で応酬しきれず、かといって頭はセマーの儀式のことで一杯だし、本当に困った。 私の敬愛するポストニシン様ファフリさんのことだけは批判することはなかったが、メフタップさんがガゼテジ(ジャーナリスト)だったら、いまごろとっくにシリヴリの個室(独房)にいるかもしれない、と思ったりして、舌鋒鋭いこの女性がジャーナリズムに躍り出なくてよかった・・・とメフタップさんのために胸を撫でおろした。 かくてアップに映ったポストニシン様を、しみじみともうっとりとも眺めることさえかなわず、ほとんど見逃してしまった状態だった。 いやはや、来年のシェビィ・アルースには、開幕の時、メフテル軍楽隊と一緒に来て、シェビィ・アルースの日にはイスタンブールにいて、自宅で猫に囲まれてしんみりとテレビ観賞しようと固く決意したのだった。 アントニーナ・アウグスタ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2016年01月31日 18時21分51秒
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