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カテゴリ:旅に出て人と会う
【12月18日・金曜日】 後で写真を掲載します。 二晩泊めていただいたものの、あまりメフタップさんの家でゆっくりすることがなかったので、彼女は何度も行くな、行くな、と引き留めてくれたのだが、あとでミチコさんが到着したら挨拶に来るから、と約束して私は荷物を全部まとめて二晩お世話になったメフタップさんの家をお暇したのだった。 すぐ脇のカバタシュ・タクシーでメヴラーナ広場の前のターヒルさんの店に行き、そこで荷物はアブデュラーさんの車に積んでおいて貰うよう頼んで、私はメヴラーナ博物館の入り口で11時に会う約束をした友人ムアッラさんを待った。 彼女がやや遅れて出会えたのが11時30分、私達はメヴラーナ博物館内にあるメヴラーナ廟に詣で、午後からミチコさんがアンカラから来ると言うと、ムアッラさんも「知り合っておきたい」と一緒にコンヤ駅まで出迎えに行ってくれることになった。 メヴラーナ廟を出た後、私がコンヤの路線延長となったトラムワイに乗って見たいと言うと、彼女はすぐにカードを出してチケット代を払ってくれた。なかなか乗り心地がいいのだが、まだ新駅の入り口の改札は機能していいないらしく、電車に乗ってからカードを読み取り機にかざすのだそうだ。 アラエッディンの丘の裾にあるザッフェルという駅が終点なので。そこで降り、コンヤ駅は近いと言うので歩くことにした。 私の感覚では近いと言えば歩いて5分かせいぜい10分。しかし、行けども行けども駅には着かない。歩き疲れて途中の大きな交差点の一角に洒落たカフェがあるのを見つけて、私は休憩したいと言った。 実は家を出る前に、洗面所で髪を洗い、熱いお湯で身体も拭いたのがよくなかったのか、ヘアドライヤーを借りることもなく、帽子を被っているとはいえ、洗い髪のまま寒風の中を歩いたために風邪を引いたらしい。 それに足も冷え切ってしまい背中がぞくぞくし始めたので、あと5分で駅に着くよ、と言われてももう歩けなくなってしまったのだった。カフェで休んでいる間に、ヌレッティン先生から電話が来て、会わせたい来客がいるので、アタテュルク博物館に来られないか、と言う。 いまミチコさんを出迎えに駅に来ているので帰り道に寄りましょう、と約束した。 午後2時15分に予定通りアンカラ高速列車がコンヤに到着、ムアッラさんと駅にいたら、ターヒルさんのタクシーが客を下ろしたところに出会った。 ちょうどミチコさんもバス乗り場のあたりで見つけたので、ちょうどいい具合、ターヒルさんの車でザッフェルのアタテュルク博物館に向かった。 ヌ先生が、かつてコンヤの隣県カラマン博物館の総館長だったころ、カラマン市にメヴラーナの母と兄の墓所があるので、当時コンヤ在住だったアキコさんと一緒に先生を訪問したことがあった。 ヌ先生が私に会わせたいという人は、その日、私達に自分の事業所で昼食をご馳走してくれた人で、私財をなげうち、数年前にすでに試験的に建設したリハビリセンターが好調で、ゆくゆくは学校や職場も設け、一大養護リハビリ村の開設を目指して、関係各方面に交渉中だとのこと。 施設の敷地としてはすでにカラマン県から山のふもとに広大な用地の提供を受け、ドイツのさる財団から資金の何分の1かに相当する巨額の寄付を受け、目下残りの資金集めに、親トルコの国々へ働きかけをしている、とのことだった。 その男性はメフメットさんと言い、既に出来上がっている計画書を見た限りでは、完全無欠のビジョンを考えていて、村内での水やお湯なども、すべて循環システムだそうだ。 会った限りでは誠実そうな人に見えるし、調子のいいところは全くないので、よくペテン師が使う福祉関係の事業を起こす、などと手段ではないことが明白だが、この11月に連れて行って貰った「ターティル・キョイ(休暇村)」の巨大施設にも劣らない大きなプロジェクトであることは確かだった。 「ついては、日本から資金の提供をお願い出来る機関、企業などにお口添えをお願いしたいのですが、加瀬ハヌム」 見たからに真面目そうなメフメットさんにはしかし、残念な言葉を返すしかなかった。 「せっかくのご計画、お手伝いしたいのは山々ですが、私はいま全く何の力もない立場です。残念ですが・・・」 メフメットさんはそれでも日本とのつながりが私1人しかいないと言うことを強調するのだが、経済的に自分の頭のハエも負えない自分が、こんな大プロジェクトを進めつつある人に、はいはいとどうして言えよう。 「加瀬ハヌム、いつかあなたは私達のプロジェクトのために動いて下さることを期待して、今日のところはこれで失礼します。この計画書の写しは、ヌレッティン先生にお預かり願っているので、あとでもう一度ご覧ください。あなたがいつか私に手を差し伸べて下さるように、神様がお手伝いくださることを祈っております」 うそ~。そんなことが私に出来るわけもないので、私もそこでお暇することにした。何しろアタテュルク博物館は、アタテュルクの残した大事な遺品などを傷めないよう、暖房はないわ、みんなオーバーコートを着たり、毛糸の帽子をすっぽり被って執務しているシベリアみたいなところである。 長時間いるのも苦痛だし、今晩ミチコさんと私は、ヌレッティン先生の奥さんが夕飯の支度をしてくれているので夜7時半頃そちらに伺うことになっているので、その間にメフタップさんの家に行って、挨拶をして来よう、と言うことになったが、昼を食べていないので余計寒かった。 ムアッラさんがお勧めの市営のレストランに行くと、ラーメン、と言うのがある。8.5リラ(18日のレートで354円)なのでどんなものが出て来るか、一つ頼んでみた。 出て来たのは、スパゲティの皿のくぼみに乾麺が載っていて、そのくぼみに日ぬるいお湯がかかっており、青海苔らしきものが皿の周囲に散らかしてあるのだった。 うっへー、知らないで料理出してんじゃないでしょうね。私は店のボーイ長に言って、コックを連れて来て貰い、材料を見せてほしいと言った。すると、それは韓国製のカップ麺をカップの外に出して皿に盛り、お湯をかけて持って来ただけのことだと分かった。 コックに聞くと、「え、やり方間違っていますか」とびっくりしている。私が説明して今後はこのカップに入れたまま、熱湯を入れて客の前で再び蓋をし、同封の粉や調味料を入れてかき混ぜ、3分から5分待ってから食べるように、と客に説明しましょうね、と教えたのだった。 かくてまずいのを我慢してそれを食べ、不満のしるしに半分くらい残して、と思ったがとにかくお腹が空いていたので全部食べてしまった。 メフタップさんの家ではミチコさんを大歓迎だったが、夕食を食べて行きなさいと言うのをやっと断ってタクシーでヌレッティン先生のお宅に行った。 結局食事が始まったのは8時半頃だったので、さあ、居間に戻ってチャイでも、と言うところに、時刻は9時半になろうとしている頃、ポストニシン様から電話がかかってきた。 「由美子ハヌム、ご機嫌いかがですか。家族みんながぜひお目にかかりたいと申しますので、今晩どうしておられるのかご都合を伺いたいと存じまして。もしお越しいただけるようなら息子達を車で差し向けます」 ヌレッティン先生に言うと、「おお、ファフリさんからのお誘いでは仕方ない。お行きなさい。今度はわが家に泊まるつもりで来なさいよ、加瀬ハヌム」そう言って快く出してくれた。 20分後に長男のミタット君と、いとこのフィクレット君が来るまで迎えに来てくれて、ファフリさんの娘さんの家にお邪魔した。コンヤに来るときは訪ねる家が多いので、常に土産物は持ち歩いているのでちょうどよかった。ただし、ブルサ絹のスカーフはファフリさんの母堂と奥さんとナズミエさんの分しかなかったが、チョコレートをまぶしたロクムはコンヤでは珍しいので喜ばれた。 ファフリさんの娘、ナズミエさんの家には、そのときですら20人以上の来客がいて、それは賑やかだった。まだあとあと人が来る様子だった。私はそこにいたほとんどの人と顔なじみだったが、ナズミエさんの夫メルトさんのお母さんは初顔合わせだった。 皆さん、私がほとんど全員の名前を覚えていることで喜んでくれた。 11時半過ぎ、さすがにアブデュラーさんの家に行かないと悪いので、また息子さん達に送って貰い、12時過ぎにシンデレラ叔母さん2人が家に着くと、まだこちらの家でもみんな目をギンギンにして起きていた。 10分くらい後にアブデュラーさんが戻って夕食、ミチコさんと私もとうに眠気が覚めてしまっていたので、チャイでお相伴したのだった。 アントニーナ・アウグスタ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2016年01月31日 20時52分27秒
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