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カテゴリ:きのこポエム24音詩への道
「カエルやキノコにヘソはあったっけ」と思う人もいるかも。でもきのこポエムにはへそがあります。そのお話しです。 俳句的、短歌的ということ 俳句は携帯のデジカメ的表現、短歌は携帯の動画的表現と繰り返し述べてきました。短歌は動画世界の表現。俳句は、とめどない時の流れ、広大な世界から1ショットスナップで一瞬の断片を切り取ってくる作業です。きのこポエムはそんなより少ない言葉で、その切り取った小窓から広大な世界を暗示させるような俳句的手法を活用しながら、文語体(韻文)を極力用いずに、僕たち現代人が普段使っている言葉で無理なく思いを述べるために7音プラスして24音を基本とした短詩です。 きのこポエムの詩的表現 2句1章と1句1章 大須賀乙字という河東碧梧桐門下の俳句作家は大正期も終わりの頃、<俳句は「2句1章」だ>と唱えました。それは臼田白亜という同時代作家の<俳句は「1句1章」>論に対抗するものでした。2句1章とは、短詩の中に更に切れ目をつける作風。1句1章は単一の主題をすらりと切れ目なしに詠み込む手法と考えてください。僕の好きな水原秋桜子の作品を例に出すと、 2句1章の作品はたとえば「菊の香や奈良には古き仏たち」 1句1章の作品には「冬菊のまとふはおのがひかりのみ」 があります。 短い詩形で多くのことを詠み込めば、何が言いたいのかが曖昧になることから、一つの対象に絞り込んで徹底追及するのが1句1章。芭蕉はそれを<黄金を打ち延べたる句>、現代俳句では同じくそんな作風の作品を<一元俳句>とよんでいます。 しかし、僕は2句1章をきのこポエムでは大いに推奨したいと考えています。短い言葉の作品を2部構成にして1章とすることから生じる不思議こそが象徴詩の醍醐味だと考えるからです。 2句1章の不思議 「菊の香や」という文章と「奈良には古き仏たち」という文章の2部構成にして並べて1作品とすると「菊の香」と「奈良には・・・」の間に意味の断絶が起こります。この明らかに意味上では切れるが、後続の全く次元の異なるものやことを読んだ言葉とがそこはかとなく繋がって1作品となっているのがおわかりいただけるでしょうか。この断絶が強ければ強いほど、意味上の飛躍が大きければ大きいほど、そこに短詩形に独特の詩性が生まれる可能性が大きくなってきます。や、かな、けり、体言止めなどの切れ字はそのための方法です。ただ、その断絶がもう一つの言葉たちにつながらなければ単なる言葉を並べただけに終わってしまう。夜の顔不思議な俳句会で説明的だと言う場合、多くはそんなただ言葉の羅列に終わっている作品のことを指します。 季語という言葉の壁 俳句が季語を用いてその季語に託して自身の思いを述べるのも、多くは2句1章を活用しています。 叱られて姉は二階へ柚の花 鷹羽狩行 この場合、前の5・7文字で1句、後の7文字の季語の1句で1章が成り立っています。現代人にとって俳句の分かりにくいのは、この飛躍してつながっていると思われる季語そのものがまず理解できなくなっているところから来ています。柚子の花を知らなければこの作品そのものが言葉として理解できません。 柚子の花あるいは柚(ゆ)の花は、初夏から梅雨季に白色5弁の芳香を放つ小花が開き、蕾は香味料とされ、柚子の実は秋の季語です。この作品では白い小花とともに柚子の木が枝に棘をもつことも伏線として込められているように思えます。でも、そんな作家の努力も柚子の花を見たことも聞いたこともない人にはお手上げなのです。 スーパーでパックにはいったきのこしか知らない読者にきのこをポエムにする場合、直面する困難は作ってみればただちに了解されます。僕がきのこにカルチャーショックを受けた四半世紀前も今もそれは全く変わりません。きのこは、それほど特殊な生き物なのです。 摩天楼より深緑がパセリほど 鷹羽狩行 同じ作家の作品でもこちらは分かりやすい。きのこポエムを現代に流通させるには言葉の勉強(季語を取捨選択することをも含みます)を強化することと併行して、ムックきのこクラブのさまざまな探訪会が必要なことがおわかりいただけるでしょうか。こうした地道な数十年の努力の果てに特殊であったきのこに代表されるヘテロソフィア文化が定着する。スーパーきのこの文化創造とはそういう性質の気の長ーい試みなのです。 スケートの濡れ刃たづさへ人妻よ 鷹羽狩行 これは僕の大好きな作品ですが、ここでは季語ではなく下5の人妻で意味上の飛躍がありますが、上5、中7の言葉と絶妙につながっていますよね。とりわけ濡れ刃なんて言葉、エロくってなかなか使えませんよね。この作品からは快活でさわやかなフェロモンを発散する女性像が文句なしに浮かびあがってきます。 以上が、言葉の上では断絶しながら、意味の上でかろうじてつながることで生まれてくる詩性を味わう俳句に固有の面白さであると同時に、現代の人たちに俳句を分かりにくいものとしてきたこえがたい壁でもあるのです。 きのこは言葉、きのこポエムのへそを探そう きのこポエムも結局はそれぞれの作家、読み手の言葉の習熟が大前提となります。僕が感覚的にきのこが大好きという人たちにきのこポエムを勧めるのは、世代間で失われつつある言葉を世代を超えて協同して回復していくための基本コースと考えるからです。その大前提に立ってはじめてきのこ・菌類という特殊な世界の生きものに対する慈しみの感情にもとづくきのこの文化(ヘテロソフィア文化と当面の目標としてのきのこシアター構想)というものが花開くのです。まずは、きのこポエムのへそを探りながら作品づくりに励み、言語感覚を磨いていってくださいませ。外国語学習でも最終的には単語力がものを言います。語彙が増えれば表現の多様性も可能になります。そのためには、考えるための言葉を少しでも多く身につけることです。
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最終更新日
2013年04月17日 21時08分06秒
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