古代歌垣が行われた海石榴市(つばきいち)で見た紅梅。
つばきのことを海石榴と書くのは海を渡ってもたらされた石のように堅い粒状の種子と私は考えている。そんな椿も江戸時代のヨーロッパにもたらされて、歌劇カルメンでは象徴的な花として扱われており、学名もカミーリア・ジャポニカと日本固有種のように扱われているが梅、孟宗竹同様、日本固有の花木ではない。舶来品である。
しかし、日本語は列島に固有の言葉である。漢字文化を脱する努力は、万葉仮名の発明にそそがれ、これこそが日本固有の文化の深化を形あるものにした。それを多言語が飛び交っていた支配層の和語への親しみをもたらすために、五音七音のつらなりから成る和歌を奨励したのではあるまいか。固有の言語普及のための苦肉の策であった。しかし、そこから立身出世のためには共通語を身に着けることが早道と考えて習得にこれつとめたものが、その精華として万葉集にとどめられたと私は考えている。多民族国家のロシアが大ロシア語を習得する諸民族の青年をエリートとして迎え入れたことと同様で言語というものは、支配秩序の根幹を占めるものだと私は思っている。したがって民族自決となれば、まず宗主国の言葉を排除し、その人たちのルーツを成す母国語復興運動からはじまるのは当然だ。その上層階級の証としての和の詩を、千年近く賭けて換骨脱胎して庶民の詩としたのが俳諧なのだ。31音の和歌の表現が、規則でがんじがらめになって詩性を失っていくと、上句の17音と下句の14音を別々の作者が分かち詠みする工夫が平安時代にはすでに生み出されていた。それは個的であるはずの詩を、複数の人たちの共同作業とし、個の魂の呻吟よりも共同して文字による絵巻物を作る方向に発展していった結果なのだ。
しかし、私は31音詩をより庶民に親しまれる詩形として17音に縮めるために、言葉のもつリズムそのものが自然と仕向けたしずかな革命が俳句だったと私は受け止めている。
私が民衆の詩としてのモダン・ジャズやロシアン・ポップスに惹かれ、俳句に精を出してきたのもそんなところにある。
最短詩としての俳句が諸外国の注目するところとなり外国語俳句もブームとなりつつあるが、日本では芸の一環として和歌、俳諧もたしなまれてきたので、まず型という不自由な枠組みをみずからに設定することが和詩の基本である。その型の習得がまずあって、型を破るパワーの中に、かろうじて詩が胚胎するというのが俳句詩の根本であるので、型に抗う態度こそが俳句詩の真骨頂なのだ。単に季節の言葉を入れて短い言葉で表現するのとはわけが違う。
しかし、最近見たテレビで、フランスでは音節を5・7・5にすることによって俳句に近づける試みをはじめたことでぐんと和詩に近いものとなりつつあるので注目している。和芸の要は型にあること。
私が末席をけがしている月に1度の"夜の顔不思議な俳句会"も125回をけみしているが、その型を意識しはじめた人の作品は抜群に進歩が早い。特殊な詩である俳句詩に向かうということはそういうことなのだから。
これまで、会では静観してきたが、少しずつ本音をもらすことにした。自由が詩の基本であるが、転ばぬ先の杖はいつの時代も必要なものだからだ。
金福寺の芭蕉像 生玉神社の西鶴像 ウエブより拝借した蕪村像
17音詩の詩形式の大成は松尾芭蕉にあるが、その江戸期という時代を軽々と越えてしまった俳諧師が井原西鶴である。
彼の言語力は抜群で、矢立俳諧と称して、一夜数万句を吐く大興行を度々開いて、俳諧の彼方へ飛んで行ってしまった。その言語に対するものすごい集中力には今読んでも驚かされる。それは散文に生かされることになる。
松尾芭蕉が彼を業俳として嫌ったのは、彼のずば抜けた才覚に、伊賀の田舎侍の息子はとても歯が立たなかったというのが真相である。彼が浪花に送り込んだ弟子たちが仲間争いをして西鶴のお膝元からSOSを発したとき、芭蕉は行きたくないのを無理やり行ったため、大好きなきのこをたくさん食べて消化不良の末に衰弱も重なって南御堂の花屋さんの離れで死んでしまう。新興ブルジョワジーの牙城・浪速は、「芭蕉なにするものぞ」という気概に満ちていたので当然だ。
そんな浪速の隣の京都に落ち着いて、わけあって生まれ故郷・天満近くの毛馬へ戻れない未練に終始した蕪村は、西鶴ほどの客気もなかったし、生き馬の目を抜くような浪速のスピード感こそなかったが、ねちねちと女遊びを続けながら、しかし、しっかりと「春風馬堤曲」を示して(大阪人の言葉でいうと、ねそが事する体で)近代詩の領域へと俳諧を連れ去ってしまった。
私は、しかし、近代日本が婦女子の玩弄物であるとした詩や文学を地で行ったような蕪村こそが、21世紀にふさわしい人間像だと考えている。
上に挙げた俳聖(?)の三者像を並べてみるとなんとも不甲斐ない人となりが如実に表れているのが蕪村像で一目瞭然であろう。私は空海に始まり、蕪村に終わる日本のスーパーマン・キャラの諸相と流れをきのこ的人間と考えてきた。21世紀のきのこの文化を考える上で、この流れはとても重要な意味を持っている。それはまた追々お話しよう。
芭蕉、西鶴、蕪村、このいずれの足元にも及ばないが、せめて俳諧歌仙の冒頭の発句を独立させて子規が創始した俳句は、世に問う詩形ではなくも、市井人のともすれば流されがちな日常生活に節・アクセントをつける心のしおり的な役目くらいは持たせたいと思うので、「夜の顔不思議な俳句会」でも、井戸端会議で留飲をさげるようなあさましいていたらくの作品だけはつくるなよと暗に言い続けている。私の愛してやまない存在の一般大衆、あるいは庶民というのは、実は自己意識の欠如した人間を総称していう言葉である。一般大衆とは、いわば「夜露の一滴」、あるいは「糸状体菌糸の一細胞」にすぎない存在であることと等しい。そんな非力で、限りなく無意味に近い存在としての自分をまず自覚することで、どれだけ世の中が明るくなるか考えたことがあるだろうか。そのために不可欠な庶民のための芸術は言葉なのだ。
川柳や時事俳句でもそんな意識を持って発する作品は、曳かれ者の小唄とは一味も二味も異なる味わいをもつものだ。それを私は「ちょっと背のび」として人と会うたびに言い散らかしてきた。
自己意識をもたない一般大衆が「ちょっと背伸び」して自己意識に目覚める努力をするだけで、今行われている衆愚政治を跳ね返すような力になりうると考えたことはないだろうか。
私は、かくいう私も含めてそんな「ちょっと背伸び」を常態にするような文化の力で世の中を少しずつ底上げしていきたいと考えている。それが私の夢想するきのこの文化なのだ。
俳句詩は、そんな「ちょっと背伸び」を心掛ける人たちにとっては素晴らしい武器となるだろう。