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夢みるきのこ

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2013年08月03日
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        西谷丸山湿原 (48)0157.jpg

 シロオニタケモドキ Amanita hongoi 先般の日曜日川西きのこクラブの散策で出会った大型きのこだ。ガッキ―ちゃんのブローチ(縦6cm×横5cm)で推して知るべし。シロオニタケ Amanita virgineoides (ヴィルギネオイデスとはLike pure whiteの意味)の違いは全体が褐色を帯びていることとツバが柄に永く残っている点くらいだ。

 「俳句は庶民の詩である」 これは僕の俳句の師である山本古瓢の言葉である。庶民と詩とは全く相容れない言葉であるが、庶民が詩と出会うときと考えれば納得がいく。それは本来的に詩とは無縁な庶民がちょっと背伸びする瞬間なのだ。ぼくは過渡の詩である俳句をはじめとするすべての定型詩は詩性と、庶民性の間で不安定に揺れ動く詩型であると感じている。

 とりわけ俳句は川柳世界もそこに胚胎してきたように、そんな中でももっとも伝統や既存の世界に対してしずかに笑って抵抗しつづける反骨の詩型と考えてきた。ところが現代俳句の世界は、伝統に如何に連なるかに腐心する和歌に準じたとても変なものと成り変わってしまっている。

 過日の夜の顔不思議な俳句会で、澤山画伯の「俳句形式の曖昧さゆえに読者に恣意的な解釈をゆるしてしまう作品に対し、作家の意図とは異なるままに流布してしまう作品を作家はどう受け止めるべきか」との発言に対し「それはそれでよろしい。作品は作家の手を離れた瞬間独り歩きするものです」との答えにならない答えが帰ってきた。これは俳句を庶民性べったりの世界に押し返す意見で詩性からもっとも遠い意見でしかない。詩はまずなによりも述志(こころざしをのべる)であることが肝要だ。その志が曲げられて伝わるとすればいささか問題であるべきなのだ。

 明治になって俳諧の発句を独立させて生まれた俳句は、過去150年ほどの間に、この詩型の可能性はほとんど究めつくされてきた。俳句は、しかし、そのはじまりから類想、類型句の羅列である宿命を帯びていた。17音と季語をあてはめることでほとんど自身の感慨をすべり込ませる余地がないことがその理由であった。あらゆる俳句的素材が完備された現代において、俳句を作ることはすでに詩精神とはいささかへだたりのあるものと化してしまっている。

 俳句作家は、果敢に新しみに挑戦するように見えながらどこかで俳句らしさ、すなわち類型・類想世界に帰属することで安定を得ようとする何ものかに変質してしまっていることに気づいていない。これは目下マスコミが喧伝する「民意は安定を求めた」ということにつながるもので、庶民性に極度に傾いた生きかたを選んでいるということだ。詩性を欠いた庶民の詩はやがて「交差点、皆で渡れば怖くない」の精神に通じている。

 僕の夢を託すきのこポエム24音詩は、まずなによりも短歌や俳句の伝統とは無縁であること、そして多言語化する僕たちの日常生活をちょっと背伸びしたポエムとして書き留め澤山画伯の突いた曖昧さをも最低限カバーしうる21世紀の詩型としてふさわしいものと考えている。そしてなによりも大切なことはきのこポエムも俳句も安定を最も忌み嫌うこと。これが青いといわれようがアホといわれようが、僕の考える唯一の詩精神であり、僕の思い浮かべる唯一の詩人のイメージだ。

 僕はアートもポエムもちょっと背伸びすることで本人自身も気づかなかった全く次元の異なる場、あるいはステージに移行するのをしばしば見てきた。それは、庶民である表現者がちょっと背伸びしてたちまち別の層に属するのではなく、この世のピラミッド社会のどこにも属さないあそびの空間にいち抜けていく表現であり、それこそが、あまたあるアートシーンの中で僕がさがし求めてきたものだったから。

 この瞬間こそが、汗水しながら働く僕たちの信じ得る唯一の芸術が生まれる源泉であるように思っている。それは宮澤賢治の提唱してきた農民芸術に通じる世界で、都会人の僕には<遊民によるちょっと背伸びのアート>ととらえてきた。

 残る人生をちょっと背伸びのアートすなわち広義の民藝アーティストたちの発掘育成、あるいはちょっと背伸びの言葉によるアートすなわちきのこポエムの作家たちの育成練磨に捧げたいと思っている。そしてそのべースとなるきのこの森への少数の同好の人たちを伴って出かける散策が僕の今のよろこびでもある。

 きのこポエムは遊民の寸詩であり、僕の考えるきのこアートとは遊民の目でとらえたきのこの彼方に見え隠れする何かということだ。

 きのこの森の散策、そして夜の顔不思議な俳句会は、和歌、俳句、きのこポエム、短詩となんでもありの会だが、要は言葉をみずからのものに奪り返すことを通して、あらゆることからすこしずつ背伸びして、わたしって、僕って、昔も今も遊民であったんだということをあらためて見つめ直すプロセスでもある。

 

 

 






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最終更新日  2013年08月03日 16時00分40秒
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