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2016年02月09日
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 庶民の詩型である俳句17音は、伝統とか貴顕の表現詩型の和歌31音から不断に離反し、自らの庶民根性に根差すものの見方からさえも必死に距離を置き、それを自覚することによってのみかろうじて詩に近づく。しかし、それでも悲しいかな、詩とは似て非なるもの。落語家による「笑点」と同じく遊興手段としての言葉遊びに過ぎないものだ。

 俳諧の発句を独立させ子規によって創始された俳句は、明治以降の新しいインテリ層による自由律俳句の台頭に対し有季定型を墨守するという庶民性に依拠することにより、伝統俳句と呼ばれ今日の隆盛を得た。しかし、その結果、第四芸術と言われてむしろ喜ぶような家元制度にあぐらをかき、俳句本来の反権威・反伝統の精神は完膚なきまでに失われてしまった。
 夜の顔不思議な俳句会は、決して攻撃的ではないが、そんな俳諧・俳句が持っていた短詩本来の日本語による詩の精神を取り戻し、常にちょっと背伸びを心がける庶民の言語生活を豊かにするためのラボ(工房)なのだ。

 ここではまず、俳人たちが俳句の伝統と言い墨守してきた有季定型が、伝統とはまったく無縁の代物であることからスタートすべきだ。

 僕がきのこポエムといい仮に17音詩・31音詩ではない24音詩を奨励してきたのはひとえに陳腐な伝統意識とは無縁に詩作をすべしという立場からの意志表示であった。

 韓国語・中国語から換骨奪胎して苦心の末出来上がったやまと言葉としての日本語は、詩による洗練を介して貴族社会に浸透させたため、ほとんどの言葉は容易に打破できない5音・7音で出来上がっている。唐十郎が「奴隷の韻律」と言い放った5音・7音の連なりこそが伝統の内実なのである。
 しかし、この5音・7音のリズムがあったからこそ江戸期に入って世界でも稀な識字率の高い国民が生まれたことも事実である。紙が高価であった時代、学問は耳を介し記憶することで広まっていったからである。

 この5音7音の調べは、私たち日本語を母語とする国民にとって記憶しやすい言葉の連なりなのである。これこそが伝統で、IT世代の台頭でこれが全く想像を絶する言語体系にとって代わられるまでは、頑強で打破しがたい伝統なのである。この革新は、僕らのずっと後の世代が取り組むべき課題であろう。

   2005-07-26 13:20:24

 昭和、平成生まれの僕らのラボでは、以下のことに留意して詩作を続けることがまず求められる。

 1.   五七調+それぞれのバイオリズムにも似た個性的なリズムの発見

 ちょっと背伸びの庶民の短詩はまず、5音7音の組み合わせを基本として、それにそれぞれの個性からなる独自のリズムを加味して、人口に膾炙する覚えやすいリズム感覚豊かな作品を打ち出すべきである。

「狭い日本そんなに急いでどこへ行く」交通標語

「梅一輪一輪ほどの暖かさ」嵐雪

 これらは短詩として言いたいことを言いえているのみならず、余情豊かに人々の心に残り、折に触れ口を突いて出てくる。これこそが短詩の魅力でなくて何であろうか。五七調の中にメリハリをもたらすリズムを練りに練って打ち出すこと。夜の顔のメンバーに今もっとも欠けているのは、その表現にふさわしいリズムを添える努力である。

 2. 言葉の制約からの自由はすなわち、言葉の真意に立ち帰ること

 花と言えば桜、月と言えば秋の季語。これらを、家元制度の末席に連なろうとする俳句結社は金科玉条としてきた。しかし、和歌的な抒情では月の本意は秋がもっともふさわしくとも、百人一首のひとつも暗記していない現代の僕たちには無理な約束である。花は桜と言われても「ウソっ」と叫び、月は秋の季語と言われても「年中あるじゃん」と思ってしまう。これらは俳句という特殊な座に連なった人たちの隠語・符牒となって負の特権意識に通じる悪しき慣習で伝統とは別のものであること。これらのつまらない制約から僕たちの言葉は当然自由であるべきだ。

 そもそも季語というのは、イメージ豊かな詩の言葉で、それを聞いた人が直ちに共通のイメージを共有できるものをいう。したがって季語を大切にするというのは、死語となって久しい言葉をよみがえらせ、その言葉本来のいのちを、その持てる意味も含めてよみがえらせること。あるいは現代生活にふさわしいイメージを共有できる新しい言葉の発見にある。これは複雑化し無季化する21世紀にふさわしい新しい季語・詩語の発見であり、自然を愛する心の涵養でもある。

 憂歌団のヒット曲の一節に「しとしと五月雨」というセリフがある。若い頃、これを聴くたびに苦笑したものだ。五月雨の「サ」音を早乙女や小夜の「サ」音と同一視したもので「みずみずしい」とか「少しばかり」といったニュアンスに誤解した結果、しとしとと言ったのだが、五月雨は梅雨時の豪雨のことでどどどっと降る雨である。でなければ「五月雨や大河を前に家二軒」蕪村 「五月雨を集めて早し最上川」芭蕉 の句意は理解できない。

 同様によく間違えるのが、氷雨(ひさめ)だ。歌謡曲の歌詞にしばしば登場する氷雨は氷のような冷たい雨という意味で歌われているが、本来はビニールハウスや車のフロントグラスに被害をもたらすほどの氷のかたまり、雹(ひょう)や霰(あられ)を指す言葉なのだ。言葉のもつ本来の働きをみんなで検討しあうことも夜の顔の重要な一面である。

  3. 短詩における特殊と普遍

 短い言葉で折々の感動や素晴らしい発見を的確に表現するためには、さまざまな言葉の言い回し、無理のない省略、てにをはの的確な使い方が求められる。

 状況説明の言葉の後に異質な言葉を並べて、直接的に語らずにその言葉のもたらす衝撃や飛躍の余韻にその言いたい意味を込めるといった高度なレトリックも可能なのが短詩の魅力だが、無責任に言葉を提示して「勝手に解釈しろ」という態度も夜の顔に最近出てきた悪しき傾向である。

 自身の感動に忠実に、その思いを的確に伝える努力の果てに、読者が全く別の読み方を示し、そのいずれもが素晴らしいものであれば「作品は作者の手を離れた瞬間から独り歩きする」と言えるのだが、そもそもの伝える努力を怠っては、言葉に対する信頼そのものを損ないかねず、 私たちのラボの目指すところではない。

 言葉足らずの表現は、夜の顔で徹底的に討論すべきで「季重なり」をあげつらうよりもはるかに大切なことである。

 今年1月の夜の顔作品の中でも、「冬空につかまれて風になる」<千の風になる>の連想を期しての表現だろうが、個人の感慨に属するものだとすればもっど直截的な表現、たとえば同夜の兼題<甘>に寄せて同じ思いを歌った作品「葬列に過去からの甘き風吹く」と言った葬列・通夜と言った説明語が必要だ。「理と情を腹に落として月満ちる」も自句自解を聞いてはじめてなーるほどと思わせられるのは言葉が足らない証拠である。「新年やじんべいざめも羽織着て」は作者特有の諧謔性とリズム感があり面白いが、同時作の「朧月神と仏と鬼の山」は魑魅魍魎の跋扈するおぼろ夜の発想から出てきたイメージの羅列に過ぎず、やはり作者不在の作品であることには変わりはない。

 同様に「十五の日行く先照らし野坂死す」では15歳?の必然が読者に伝わらずやはり説明不足だ。「わが思春期の」とすれば意味は伝わる。

「観たあとは色と形と点と線」は、映画<草原の実験>を観た人にはうまいと手を打つほどのものであるが、これは前書きなしで作品そのものの中にあの意外な結末が待ち受ける深い内容の映画を一言で言い表すようなタイトルを具体的に入れる必要がある。

「光速で還るオリオンスターマン」はごく少数の思い入れのある人にはそれとなくD.ボウイの死に関することだとわかるが、一般の読者には伝わらない。これらは個人的な感慨で固有名詞をいれて特殊な事件として記録にとどめるべき性格のものだ。

 個人的な感慨を普遍的抽象的に語ることは時に必要かもしれないが、常用するとあくまで自身の感慨に忠実に詩作をするという態度をいつしか手放すことになりかねない。

「死者抱き忍野八海六花」雪の富士八景のひとつの大景を詠んだ見事な作品だが、死語となった雪の異称「六花」を用いたことで意味不明瞭となってしまった。ここでは雪積めりとか、もっと平易な言葉でとどめるべきだ。そして死語となった六花(むつのはな)を現代によみがえらせるためには雪そのものを六花と思わせる形で詠む必要があると思う。どうぞ再挑戦してほしい。

 あるいは「空気の質量を感じる冬の朝」というような独自の把握の一行詩で読者を唸らせる作者の「生きているのか死んでいるのか冬の熊」という同時作は、この把握の仕方の弱点をさらけ出したもので、冬の熊に蛇足の説明を加えただけに終わってしまっている。

 このように舌足らずの詩形で格闘する努力は、他日、「寸鉄人を制す」といった意味合いの短い言葉でズバリ言いおおせて何かある世界を提示することに尽きる。そのためには、あくまで自身の個的な感動の質に依拠して普遍に通じるような世界を指し示すことが必要なのである。

     竹内街道散策 (36)0021.jpg

 「たかが短詩、されど短詩」の世界。メンバーも充実してきた昨今、もう一度夜の顔の初心を披露するのも必要かと思い繰り返し所感を述べさせていただいた。

 最後に、当夜提出の作品と故人の作品を挙げておく。同じく生かされている感謝の瞬間を詠んだものだが、短詩と日常語の違い、リズム感、詩としての完成度の違いを感じてほしい。

「目が覚めた神様今日もありがとう」詠み人不詳

「覚めて澄む乾坤のひまふくべ垂る」 山本古瓢

 






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最終更新日  2016年02月09日 14時24分00秒
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