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カテゴリ:きのこポエム24音詩への道
夜の顔とのかかわりの中で短詩型文学を再検討しはじめて、俳句につながる日本的な超短かい詩の本質は、五音・七音の呪縛のみだとようやく気づいた。きのこポエム24音詩は、大方の俳句作者が17音の有季定型俳句は伝統詩だという愚かな思い込みとは無縁なところで詩作を思索しようと思いたって始めたまでのことだったが、五七調あるいは七五調からはどうしても抜け出しえないのだ。そんな日本語の5音7音の言葉の堅固さと格闘してきてハタと気づいたのだ。 夜の顔の参加者は、まだ型というものの便利さに気づいていない。5・7・5という音数の型に言葉をそわせるだけでただの話ことばや挨拶が詩として扱われるのは世界でも日本だけだろう。もっと型を意識すべきだといつも思っている。 ただの言葉の羅列や断片が十七音にまとめるだけで東洋の島国では詩として扱われるという定型の魅力を利用しない手はない。僕はその型を弁当箱になぞらえた。初心者はまず17音にまとめる習慣を身につけるべきだ。型を意識しなければ型からは抜けられない。それがこの国の詩文学の桎梏なのだ。 夜の顔の作家たちは、その定型を意識せずに作詩をするから日本語の詩歌の基本が身につかない。基本が身につかないかぎり、そこから抜ける手立ては見つからない。この島国の文化の特殊性と向き合う際にもそれは絶えず壁となって立ちふさがる。 僕はそんな次第で、日本的音数律と抗う日々だ。5・7調を外して思いを述べる方法は、句またがりという。今月のきのこポエムはわざと5・7調を外して作っている。 飛燕ひるがえり鳴きはたと熄むサティの「ジュ・トゥ・ヴ」 サティの有名な曲は「あなたがほしい」という意味だ。この5月17日、彼の数百回目かの誕生日だったので彼に捧げる意味で。 ランボーの乱暴僕の貧乏鳴くな牛蛙 ボウで韻を踏んでいる。牛蛙の声もボウボウだから完璧と悦に入った次第だ。 くちなしのくちづけ見たくもないぜまどか月の裏 クチナシの香りにむせながら口裂け女ならぬ口無しに近いおちょぼ口の女と口づけする情景を創造してほしい。目を閉じてドアップの白い丸顔を近づけてくる女の本心を読み兼ねて、「でもまあいいか満月の裏側見たいと思った事もない僕だからね」と想定外の事態を受け入れている図だ。 綿棒の耳こそばゆし豆の花 ひるがえって、5・7調の俳句はさらさらと出てくるが、作ればつくるほどどこかで見たことのある作品めいて自画自賛できないのだ。 さて、こうして5・7調からの脱却を試みると、がぜん記憶しにくくなってしまう。 5・7調だと他人の作品でも一言半句すらすらと口を突いてでてくる。どうやらこれが日本語の味噌なのだと気づきはじめている。唐十郎がこの5・7調を奴隷の韻律と言った意味がよく分かる。
この問題の克服には、やまと言葉創出の現場に立ち返って中国語の詩文をそっくりそのまま訓読するシステムを作り上げた我が国の支配層の渡来系エリートたちの腐心のあとを辿る必要がありそうだ。そんなわけで蕪村の漢詩受容の問題を検討するうちに、漢文の世界にさまよいはじめている。 どんどん蕪村から遠のいているので、どこかで折り返さなくてはならない。
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最終更新日
2016年05月30日 19時32分38秒
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