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夢みるきのこ

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2021年08月01日
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 世界中のどこを見渡しても五・七・五の十七音の言葉をお弁当箱(定型)に盛りつけただけで詩になるなんていうような発想は見当たりません。そのため、俳句作家は、自分が盛りつけた言葉の具材と配置とその内容が果たして詩であるか否かを毎回問い続けなければならない羽目に陥ってしまいました。
 俳句はそもそもが非詩の器なのです。したがってここに言葉を盛り込み、詩として自立させるためには最低限、自身が詩を創ろうとしているという自覚なしには始まりません。それは庶民根性に根差していてはいつまでたっても非詩のままで終わってしまいます。「ちょっと背伸び」しなければ俳句を作っていても俳句すら手に入れることができずに終わってしまいます。
 俳句は高尚だが、川柳なら出来そうという発想はもっとも忌むべきことです。詩精神をはじめから放棄してしまっては詩人の自覚はついに得ることはないからです。詩をつくるんだという方向性だけは明確に見据えながら、そこへ到達できないで倒れることのくりかえし。これこそが俳句精神なのです。その間に短い人生は終わってしまう。これが俳句が過渡の詩と呼ばれる所以なのです。南画は生計の手段、俳諧こそがわが命と考えていた蕪村ならそれをきっぱり「俳句に詩をもとめるのはないものねだり」といい、「だからこそ私は俳諧に挑み続けるのだ」と言ったでしょう。17音詩は広き門ですが、詩とは何かを問い続けることなしにはその門の存在すらも見えてこないでしょう。この自覚をもって不断に詩へと挑み続ける過程こそが人生、人が人として生きる唯一の手段だと私は考えます。
 こう考えて初めて、「たかが俳句」は、すべての生きる行為につながる「されど俳句」すなわち生きる庶民の言葉の芸術となるのです。





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最終更新日  2021年08月01日 20時46分04秒
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