ミハイル・クルックは、シベリアから極東のロシアの労働者階級でもとりわけ下層市民にとっては神様のような存在だが、彼の存在を知ったのはヴィーカ・ツィガノーバのお蔭だ。ウラジオストック映画祭に訪れたおりに手に入る限りのCDを買い求めて帰った。のちにロシア向け中古車の輸出の仕事をしばらくやってたおりには、来日するバイヤーと夜はルースキー・シャンソンのことでいつも盛り上がった。
このCD(タイトルはそのものずばり、ミハイル・クルック)が、ヴィーカ・ツィガノーバとのデュエットアルバムだが、彼女は彼と出会い敬虔なロシア正教の信者になった。それは彼の自宅へ訪れた際に、当時すでにスーパースターだった彼が本当に質素な生活(まるで修道僧のような)をしていた事に感動しての事だった。それで意気統合してできたアルバムがこれだ。このアルバムに収められた"プリハジーチェ フ モイ ドーム"'(我が家へいらっしゃい)は、とりわけ有名。いつの年だったかは忘れたが、彼はルースキーシャンソン年度賞を受賞している。このアルバムは、ツィガノーバとのデュエットばかりを集めたもので私の愛聴盤になってひさしい。
それからまもなく彼は自宅にいるところをピストルで殺されている。事件はいまだに迷宮入りのままだ。というより解決済で処理されたのだろう。彼の伝紀も映画祭の折に入手して読んだが、なにもかも不明のまま。しかし、そんな死も手伝って彼はルースキー・シャンソンの不滅の歌手としていまだに愛されている。
ツィガノーバは、95年の冬モスクワ、サンクトぺテルブルグを訪れた際にはペレストロイカ以後の最も物資が不足していた時でもあり、その無政府状態を肯定することによって乗り越えようとするかのように彼女の"グリャイ・アナルヒア"(無政府状態よ、闊歩せよ、くらいの意味)がヒットしていた。この頃のヒット曲は、アルバム"ルースカヤ・ウオッカ"に収められているが本当に凄い時代だった。この時期のロシアは本当に崩壊寸前だった。良く持ちこたえたものだと今になっても当時を振り返って思う。この時ばかりは北方領土も提案次第ではもどるかに思えたが、返還に至らなかったのは、日本の外交の不手際というよりももっと根本的な日米同盟の問題だったことは後になって分かった。日米同盟、ひいては日米安保の傘下にあるかぎり、北方領土はいかなる形であっても帰らない。この事は「月のしずく」で改めて書くことにしよう。
それはともかく、彼女の代表アルバムはロシア民謡に郷愁を覚える日本人にも違和感なく受け入れられる、"カリーナ・クラースナヤ"(赤いカリーナ)だが、彼との出会いを境に正教に帰依し、ロシア海軍を礼賛するようになり、領土問題にも目覚め、エトロフ島に自費で大きな十字架を建てたりもしている。右傾化と正教はロシアの場合はセットなので自然の成り行きだが、やがてプーチンが登場してロシアはすんでのところで崩壊をまぬがれた。その打ちひしがれた状況からの脱却の記憶がプーチンと重なりロシア国民を支えているのも事実だ。たかがロシアンポップスだが、ロシアンポップスからも現代の歴史にコミットすることは可能だということだ。ロシアを嫌っているばかりでは今のロシア・ウクライナ戦争に対しても即時停戦への仲介役を果たせない。しっかりせよ。マスコミに踊らされるばかりの日本国民。