カテゴリ:プレバト俳句を添削ごと査定?!
どこまでが猫でどこから毛布かな 冬晴のパリの街並み猫二匹 老猫のいびきは父似日向ぼこ 冬日向窓辺に毛布猫の夢 母を待つ今日も感謝の冬薔薇 吾に見えぬもの見えておる炬燵猫 可惜夜の猫の温みの布団かな
1月18日のプレバト俳句。 お題は「毛布の猫」。 ◇ 呂布カルマ。 どこまでが猫でどこから毛布かな どこまでが猫でどこからが毛布(添削後) これが今週の1位。 切れ字でなく、 疑問の終助詞をそのまま使った、 まるで小学生の子供みたいな俳句。 俳句という文芸は、 へたに概念的な大人の発想よりも、 むしろ子供みたいな素朴な視点のほうが有利にはたらく、 …という典型的な事例。 とはいえ、 俳句らしからぬ「かな」の用法や、 助詞「で」の使用はいただけないので、 わたしなら、 どこまでが毛布か 猫はどこからか と直します。 ◇ 新木優子。 冬晴のパリの街並み 猫二匹 冬晴のパリの街並み 猫と吾と(添削後) 句材はいたって凡庸だし、 二句一章の取り合わせも近すぎるけど、 俳句の形は出来てるので、 平場なら「才能アリ」ってことでしょう。 中七で切って、 下五に季語以外のものを置いてますが、 猫2匹が主役の存在感をもっていて、 前段と後段の比重に偏りはないし、 主役が冬晴れの風景を引き立ててるので、 とくに季語を脇役に貶めてる感じもない。 まあ、逆にいえば、 それこそが「取り合わせが近い」ってことだけどw ◇ 風間トオル。 冬日向 窓辺に毛布 猫の夢 日向なる窓辺に毛布 猫の夢(添削後) 「冬日向」と「毛布」の季重なり。 形式上は三段切れですが、 「冬日向の窓辺に毛布があって猫が夢を見ている」 という一句一章1カットの内容。句材も凡庸です。 ◇ 清水アナ。 ガラス戸の喫茶 毛布の看板猫 下6の字余り。 風間トオルが住居の窓を描いたのに対して、 こちらは喫茶店の入り口を描いてますが、 おおむね同じような場面です。 「ガラス戸の喫茶」とすべきか、 「喫茶のガラス戸」とすべきかは迷うところ。 また「喫茶」というのは、 たしかに《喫茶店》の略としても使うけど、 本来の意味は《茶を喫すること》なので、 むしろ「カフェ」と書いたほうが正確です。 さらに「毛布の猫」は、 《毛布のような猫》との誤読もなくはないので、 むしろ「毛布に猫」と書いたほうが誤読されない。 …以上を踏まえて、 カフェの硝子戸 毛布に看板猫 とすれば17音に収まります。 句材は凡庸なので、 やはり平場なら「才能アリ」ってことでしょう。 清水アナは過去にもっと良い句があったけどね。 わたしと先生の評価はつねにあべこべなのです。
◇ サルゴリラ児玉。 老猫ろうびょうのいびきは父似 日向ぼこ 奇しくも先週の水野真紀が、 「君は私似 春間近」と詠んだばかり。 助詞「は」を使ったところも、 下五に季語を置いた形式まで同じですね。 二句一章なので、 季語「日向ぼこ」の主体は、 猫ではなく作者自身ということになる。 ◇ 若村麻由美。 母を待つ今日も感謝の冬薔薇ふゆそうび 通院の母待つ庭の冬薔薇(添削後) 通院の母待つ庭や 冬薔薇(添削後) 兼題とは無関係な、 凡人ワードの「母」を用いて、 自分の内面を語ってしまった心情句ですが、 その「感謝」の対象も、 はたして母なのか、薔薇なのか、 または自分の人生のすべてなのか分からない。 一般に季語の「冬薔薇」は、 寂しさや侘しさの象徴なので、 自分の孤独と共鳴する存在にはなっても、 あまり感謝の対象にはなりにくいと思う。 ◇ 千原ジュニア。 吾に見えぬもの見えておる炬燵猫 なかなか非凡です! サスペンスホラーでありながら、 ちょっと滑稽味もある。 そして、 これほど模範的な一物仕立てにはそうそう出会えない。 ◇ 梅沢富美男。 可惜夜あたらよの猫の温みの布団かな 可惜夜の布団に猫の寝息かな(添削後) 可惜夜。 すなわち《惜しむ可べき夜》ですね。 ただ飼い猫と眠ってただけの夜を、 おおげさに「可惜夜」などと書いたことが、 かえって先生の反感を買ってボツ! 例によって美辞麗句をひけらかしただけの作。 なお、形容詞の「惜あたらし」という古語は、 《惜しまれるほど貴重である》 《もったいないほど素晴らしい》みたいな意味。 なぜか「新し」と同音ですが、 後者は「あらた」が「あたら」に音変化したもので、 もともと語源も意味も違うようです。 ▽過去の記事はこちら https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.01.23 04:31:55
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