カテゴリ:プレバト俳句を添削ごと査定?!
「いざ月へ」宇宙ごっこの半仙戯 ふわっとふらここ 水平になる手前 廃校のぶらんこは夜よに揺れており 故郷ふるさとと同じ遊具や春の風 初虹や背中を押され漕ぐ子供 小さな手わが背押したる春の暮 ブランコと母待つ夕暮れ花吹雪 子らが去り未だ明るし遅日かな
4月18日のプレバト俳句。 お題は「ぶらんこ」。 ◇ 森口瑤子。 ふわっとふらここ水平になる手前 8+10 の破調。 先生いわく「体感的」な句ですね。 動画的でスローモーションっぽい。 形式も内容も、なかなか独創的でした。 ◇ 梅沢富美男。 廃校のぶらんこは夜よに揺れており 廃校のぶらんこ夜よるを揺れており(添削後) 廃校や 夜がぶらんこ揺すりおり(添削後) 夜を「よ」でなく「よる」と読めば、 助詞「は」を不用意に使わなくて済むよね。 先生の添削は、よりホラーな感じを強めてます。 ◇ 清水アナ。 「いざ月へ」 宇宙ごっこの半仙戯はんせんぎ 春の季語「半仙戯」はブランコの別称。 秋の季語「月」との季重なりです。 もともと、 天にも昇る気分のことを「羽化登仙うかとうせん」と表現するらしい。 すなわち、羽が生えて仙人のように天に昇るがごとき心地のこと。 そこからブランコ遊びのことも「半仙戯」と呼ぶのですね。 すなわち、半ば仙人になるがごとき遊戯ってこと。 なので、半仙戯を月に結びつけて、 「ブランコを漕いだら月にも行けそう!」 みたいな類想はけっこう出てくるし、 そういうイマジネーションを詠んだだけなら、 わざわざ「宇宙ごっこ」と説明する必要はない。 … 余談ですが、加古宗也の句に、 昼の月蹴り上げて来よ 半仙戯 という、やはり季重なりの句があります。 ↓こちらのサイトを見ると、 http://www.haisi.com/saijiki/hirunotuki1.htm じつは「昼月」の句には季重なりが多く、 ほとんどの場合、 これを秋の季語とは見なしてないっぽい。 かたや、芝不器男の俳句には、 鞦韆ふらここの月に散じぬ同窓会 ってのがある。こちらは夜の月ですね。 鞦韆(ブランコ)は季節を問わず存在するし、 月も季節を問わず存在するけれど、 やっぱり「月」が綺麗に見えるのは秋だから、 これは秋の句として読むのが妥当かなと思う。 しかし、一般的には春の句と解釈されるようです。 ためしに、 季重なりを回避すべく、 時事ネタを取り入れた改作ですが、 月面の邦人 吾子の半仙戯 としてみました。 これなら春の句として疑義はないと思う。
◇ 南果歩。 ブランコと母待つ夕暮れ 花吹雪 ブランコに母待つ夕や 花吹雪(添削後a) ブランコと母待つ夕暮れに一人(添削後b) この2つの添削案はいただけない。 一方の(添削後a)は、 「ブランコ」と「花吹雪」の季重なりを容認した形。 それならそれでいいのだけど、 中七が「母が待つ」なのか「母を待つ」なのか、 いまいち分かりにくい。 助詞を加えれば、 母を待つぶらんこの夕 花吹雪 のように解決できます。 他方の(添削後b)は、 「ブランコ」の擬人化を容認した形。 しかし、せっかくブランコを擬人化したのに、 最後に「一人」と書いちゃったら意味ないでしょw ブランコと一緒なら一人じゃないって話なわけで。 いずれ凡句にはちがいないけれど、 ぶらんこと揺れて母待つ夕間暮れ のように書けば擬人化する意味はあります。 ◇ 水田信二。 子らが去り未だ明るし 遅日かな 公園の子らが去りたる遅日かな(添削後) まずは中七で切れてるのが欠点です。 子ら去りて未だ明るき遅日かな と書けば、すくなくとも形式的には整う。 しかし、そもそも、 「子供が帰るころになっても明るいのが遅日」 と考えるべきなのだから、 たんに季語を説明しただけの内容でしたね。 ◇ …さて、 今回は平場に「才能アリ」が3人いましたが、 いずれも評価が甘いと思わずにいられない。 蓮見翔。 故郷ふるさとと同じ遊具や 春の風 まあ、 ぎりぎり「才能アリ」ってところでしょうか。 句材も悪くないし、形式も出来てるし、 とくに瑕疵はないけれど、 よくもわるくもシンプルすぎるかなと思う。 ◇ 近藤千尋。 小さな手わが背押したる春の暮 小さき手のわが背を押せる春の暮(添削後) 作者いわく、 子供の手に「仕事への励まし」を感じた、とのこと。 実際のところ、 身体的に「背中を押した」のではなく、 精神的に「背中を押した」と解釈することもできるし、 それならそれで成立します。 たとえば親の《転職》や《再就職》の句とも読めるし、 あるいは《離婚》や《再婚》の句とも読めます。 かたや身体的に「背中を押した」と解釈した場合、 《孫が年寄りの背中を押して階段や坂を登らせてる》 と読めるから、字面だけでブランコの句とは分からない。 ◇ キスマイ二階堂。 初虹や 背中を押され漕ぐ子供 形式的には出来てますが、 近藤千尋の句と同じように、 身体的に「背中を押した」のではなく、 精神的に「背中を押した」とも解釈できる。 そのうえで、子供が漕いでるのは、 《三輪車》なのか《自転車》なのか、 《ボート》なのか《ブランコ》なのか、 まったく分からないだろうと思います。 これを《ブランコ》の句だと断定できるのは、 評者自身が兼題写真の先入観に囚われてるからです。 ▽過去の記事はこちら https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.04.22 09:30:08
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